1、暗闇坂

小さい頃、渋谷にでるのには、自由が丘から東横線をつかっていました。
道路の上にある中目黒の駅を過ぎると、電車は鬱蒼とした杜のなかへ分け入っていきます。
大きな木々にかこまれた代官山の駅をでてしばらくすると、いよいよ繁華街を予感させる景色と匂いにつつまれた明治通りに沿ってゆっくり走ります。

そんな車窓から見える風景が大好きでした。ああもう渋谷についてしまうと思うころ、その奇妙な建物がいつも目にはいってくるのでした。

全体が大きな看板、巨大なデコレーションがくっついた変な建物。それは大きなピエロの顔のオブジェで、半分に割れた顔の片方は、ネジや歯車といった機械仕掛けのなかみがとびだしていました。
まだ幼かったぼくは、あの建物のなかにはいったい何があるんだろうといつも思っていました。ちょっとこわいけど、きっと楽しいはずだと勝手に想像をめぐらせたりしていました。
でも実際にはその建物の近くに行ったという記憶はありません。 渋谷駅が近くなった時の、ゆるやかな風景の秘かな楽しみだったのでしょうか。

その奇妙な建物が何だったかを知ったのはずいぶん後になってから、大学に入る頃でした。寺山修二が主宰する劇団「天井桟敷」のアトリエ、いわゆる「天井桟敷館」だったその建物は、すでに取り壊されてなくなっていました。

この二ヶ月ほど六本木ヒルズの映画館で、成瀬巳喜男の映画を週代わりで一本ずつ、全部で十本の作品が見られるというので、毎週のように地下鉄の麻布十番の 駅からゆるやかな坂道をのぼって、丘のうえの映画館に通う日がつづきました。これまで六本木ヒルズにも行った事もなく、麻布十番にもすっかりごぶさたでし た。
いい機会なので、ゆっくりとあちこち見回しながら歩いてみます。
商店街を抜けて、麻布十番温泉の角に立って見上げると、左に緩やかに曲がった暗闇坂があります。坂の登りくちに右にはいる細い道があって、ちょっといったところに、真っ黒に塗られた一軒家があったのを思い出します。

やはり黒々と塗られた風見鶏が印象的だったその家こそが、渋谷から移転してきた、もうひとつの「天井桟敷館」でした。とはいえ、ぼくがそこを訪れたのは寺山修二が死んで、劇団が解散を決めたあとのこと。主をなくした家が店じまいの処分セールをしたときでした。

寺山修二の死にものすごくショックを受けていたぼくは、なにがなんだかわからないまま、そこで「レミング」や「百年の孤独」「奴婢訓」でつかった衣装や小道具、それと合田佐和子の絵を買ったのでした。

今回その時以来、暗闇坂の手前を右にまがってみました。
このあたりだったかな、もう少しさきかなと、記憶をたよりに歩いていると、はっぴいえんどの「暗闇坂むささび変化」が、自然と口をついてでました。

 ♪ ところは東京麻布十番おりしも昼下がり
    暗闇坂は蝉しぐれ
    黒マントにギラギラ光る目で
    真っ昼間から妖怪変化

    ももんが ももんが お~おももんが ♪

冬のスズナリの階段のあがり口で、黒いコートを着た寺山修司の姿を見つけたことがあります。ポックリのせいかとても大きく見えました。岸田理生の芝居がはねたばかりで、きっとだれかを待っていたのでしょう。

背景からぐっとせり出す妖怪変化。化かされてばかりだった寺山修司が亡くなって、もうずいぶんと経ちました。

2、豊玉伽藍

環状七号線豊玉陸橋のほど近く、赤とオレンジがまざったような外観の、四階建てくらいの古びた雑居ビルは、どことなく異様な波動を周囲に放ちながらそびえていました。
そこは麿赤児主宰の暗黒舞踏派「大駱駝艦」のビルです。もちろん自社ビルとかいうわけではなく、実際にはどうだったのかわかりませんが、当時はなんというか「大駱駝艦」に占拠された建物という感じでした。

大学にいっていた頃は、演劇とともに舞踏にもよく足を運んだものでした。
「アングラ」だとか「暗黒舞踏」とかって、なんかお仕着せみたいな安っぽいイメージが流通していて具合が悪いのですが、たしかぼくの記憶では「暗黒舞踏」はあるグループ名みたいなもので、その派閥を名乗っていたのが「大駱駝艦」だったと思っています。

裸同然の肉体に白塗りであれば「暗黒舞踏」だといわれがちですが、踊るひとによって実にさまざまで、優雅で詩的なものもあれば、華麗な流麗さをもったもの、躍動や喜びにみちたもの、ほんとうにひとくちでは表せない豊かな表現形態が、そこにありました。
そのなかでも、たしかに「大駱駝艦」はおどろおどろしく、暗黒であったと思います。

そんな暗黒を観にいくのにときどきむかったのが、アトリエ公演の会場である「豊玉伽濫」でした。

建物の脇から入ってその一階部分が、稽古場をかねた舞台になっていたと、ぼんやりとではありますが、覚えています。
その日は金太郎をモチーフにした演目で、いつもながらの超満員でした。あの当時、椅子席にすわって芝居をみるということはごくまれで、いわゆる桟敷席にぎゅうぎゅうにつめこまれての観劇というかたちが多かったものです。

整理券を片手にはいってくる観客を、うまく誘導し、なるべくたくさんの人をむだなく着席させるのが、若い劇団員たちの腕の見せ所でもありました。
観客サイドもその作法には慣れたもので、整然と寿司詰めになっていくさまは快感すらともなうものでした。そうして詰め込まれたひとりあたりの占有分は、小さくなった体育座り、あるいは屈葬状態というくらいの、かなり窮屈な状態です。
おおよそ埋まった桟敷席、それでもまだまだとばかり、舞台を背にした劇団員がみなに声をかけます。

「わたしの『せーの!』かけ声で、舞台下手方向におしり一個分、ずらしてください。それではいきますよ。」


なぜか客まで「せーの!」と声をだして、みんなが同時に五センチずれる。
そうやって全体の観劇体制が整い、自分の位置が決まってはじめて、外で待っている間にもらったチラシをおいて、トイレに用を足しにいくことができます。

豊玉伽藍は、劇場にあるようなロビーやいくつも便器がならぶ特別なトイレがあるわけではなく、舞台の上手づたい、観客席のすぐわきに扉があって、そこをあけるとすぐさま日本式の便器がひとつ、ぽんと待ちかまえているというシンプルなものでした。
それゆえ混んだりもするのですが、その日はうまいこと誰も待ち人はなく、すぐさまドアは開きました。
しかし開いたのはいいのですが、目に飛び込んできたのは、便器ではなく、白くて大きな女性のおしりだったのです。
鍵をかけわすれた先客はおしりのむこうから声だけで、か細く「すいません」と言い、同時にぼくも「すいません!」とドアを閉めたのでした。

薄暗い劇場だったせいか、そのおしりの白さと大きさはとても印象的な残像をとなりました。
そのまま席に、といってもチラシですが、戻って、舞踏を観ました。
たいへんおもしろい演目でした。
それは展開される夢のような踊りの合間に、フラッシュバックのようにはさまれる、白くて丸くて大きなおしりによるところも大きかったのではと思っています。

なぜかその後に「豊玉伽藍」にいった記憶はなく、いつの間にか舞踏も観なくなっていました。
去年の暮れに、たまたま大駱駝艦の人と話をしていて、「豊玉伽藍」はとっくになくなっていたことを知りました。
でも「豊玉伽濫」は、あの当時の独特の空気のまま、ぼくのなかに、ほのかなエロスとともに残っているのです。

3、ゴールデンボール

忘れられない顔があります。

おそらく年は三十歳代なかばで口ひげのある男の人で、困ったような悲しそうな顔をしたそのまま、ぼくの脳裏にくっきりと焼き付いています。

中学生のある時期、「不良」ではなかったのですが、決して「良」でもないぼくは、当時流行っていたピンボールマシーンに夢中でした。お気に入りのマシーンをもとめて、あちこちのゲームセンターに通う日々を送っていました。
川崎、武蔵小山、渋谷にまで足をのばすこともありましたが、やはり地元のゲームセンター「ゴールデンボール」が一番でした。

昔のゲームセンターは、テレビゲーム以前のアナログなゲームが散在していて、入ってすぐ左側に並んだピンボールマシーンたちは、まさにゲームの花形でした。
ある日、ぼくたちにとても好意をもって接してくれていた店長から相談がありました。
相談というか、あれこれ話をしているうちに、「実はこんなことがあるんだけど・・」という感じで話題にのぼったことでした。
それはピンボールマシーンの料金箱に、なぜか五円玉が混ざっていて、それがいったいどういうことだろうというものだったのです。
そのときぼくは「しまった」と思いました。
思ったけど、なぜかはわからないと答えました。何気ない会話の一節でした。

五円玉がどこからどうやって、ピンボールマシーンの中に入りこんでいったか、ぼくは知っていました。

五十円で1ゲーム、百円で3ゲーム。
お金の投入口のすぐ下に、返却口があります。そこにそっと五円玉を入れ、左手の人さし指にのせ、右の壁面にあて、垂直にたてます。そして第二関節を軸に、五円玉ののった指を真上に振り上げるのです。
すると五円玉は、本来返却される時にのみ通る道筋を逆流して、ピンボールマシーンの内部へと吸い込まれていきます。そう、まさに吸い込まれていくという感じです。
その瞬間、ゲーム機のカウンターが、カンカンカンとかわいた音をたてて、有効回数の「3」をしめします。
あとは百円をいれたのと同じ要領でゲームがはじまります。

それがいいこととは決して思っていなかったはずですが、かなりの技術を要するがゆえに、できる人も少なく、成功した時の喜びと優越感はひとしおでした。

そしてこれは本当にばかだと思うのですが、その五円玉はあたかもどこかちがう空間、異次元に吸い込まれ消えたような錯覚をいだいていて、まさか徴集する料金箱のなかに、五十円や百円とともに残っているとは、まったく考えもしなかったのです。

「しまった」と思ったのは、五円玉が「証拠」として残っていたと知らされたからでした。

店長からその話があったあとは、基本的には、その行為はやらなくなりました。
別のいいかたをすれば、回数は格段にへったものの、ときどきやっていたということでもあります。

このズルは、ひとりではできません。

左手を返却口にいれたまま、なにやらカチャカチャ、もそもそとやるので、はたから見ると、身体がかたむいたような、へんな格好になります。
だからその後ろをゲームのギャラリーを装った仲間がかべを作って隠します。
いつも人の気配をうしろに感じての悪事でした。
首尾よくいったあかつきに、はじめて振り返ってどんなもんだいと、得意げにしてみせるのが習わしとなっていました。

その日、振り返ったすぐ後ろに例の店長がいました。
全部みていたのです。
「ちょっとこい。」
といって入口のカウンターのところに連れていかれました。これは相当まずいことになると覚悟せざるを得ませんでした。
店長は、警察を呼ぶでもなく、声を荒げて怒るでもなく、ただただ黙ってぼくの顔を見ていました。
しばらくして、「もう行け。」といった時の、店長の顔。冒頭に書いた、おとなの男の顔が焼き付きました。
無事放免を幸運だとは、これっぽちも思いませんでした。なんかもっと大切なものをなくしてしまったようでした。

その後、しばらく「ゴールデンボール」はもちろん、その近所にも行けませんでした。ずっとあとになって、友人のひとりが、もうあの店長はいないよと教えてくれた頃には、ピンボールマシーンへの思いは、平熱以下まで下がっていました。

4、オデッセイ

かつて「ウインナーコーヒー」なる、あこがれの飲み物がありました。
コーヒーに生クリームを浮かべた「ウィーン風」コーヒーで、ほんとうにオーストリアの人達はこうやってコーヒーを飲むのかと、心底うらやましく思っていました。

高校に入った前後ですから、もうかれこれ三十年ちかくなりますが、三軒茶屋の世田谷通りと玉川通りが交差するあたり、本屋さんの地下に、とある喫茶店がありました。
そんなむかしでも名前はしっかり憶えています。
「オデッセイ」。

通常は、なにやら薄暗い喫茶店で、時たまライブをやるお店だったように覚えていますが、いま思うとライブハウスだったのかもしれません。
ぼくはそこに中学のころからときどき行っていました。

「オデッセイ」の魅力はなんといってもコーヒーに一緒についてくる生クリームでした。コーヒーを注文して、生クリームがたくさんはいった容器のふたをあけ、思う存分いれることができるのです。
上のほうからずずっと飲んで、たりなくなったらまた足して、また足して。
これのくりかえしです。

生クリームといっても昨今のようなクリーミーなやつではなく、なんというかホイップクリームのような、ざくっとすくってカップの端で、かんかんと振り落とし、琥珀色にまざった白いかたまりからじわっと妙な油がにじむようなたぐいのものでした。

なんでそんなものといわれても、当時のぼくにはこれほどの快楽、極楽はなかったといっても過言ではありませんでした。お金をもらっては三軒茶屋へ。

そうこう出入りするうちに、そこで催されるライブのお客さんとして、足を運ぶようになりました。

音楽が先なのか、生クリームが先なのか、いまもってなぞではありますが、「オデッセイ」で、数年のちにボーヤ(注:バンドの荷物持ち。別称ローディ)となるカシオペアや、クロスウインドといった、当時まだまだ無名ではあるものの、ものすごい力をもった人達の演奏と出会えた事は確かであって、それがぼくの人生に多大な影響を与えたのは、まぎれもない事実です。

人はひょんなことで、いろいろなものと出会い、人生を左右する事柄や人と遭遇したりするものです。
ぼくの場合、そのきっかけは、「オデッセイ」のへんな生クリームだったのです。