一、「ガレットなんて知らない」

 ライブが終わって、俺はそのままデイトだった。地下にある「マルディグラ」から上がってくると、外はまだ明るかった。
自由が丘駅の改札口のすぐわき、菊子はスマホの操作に夢中で、ギターケースがその可愛いおでこに当たるまで、俺のことなど気づきやしなかった。
「ガレットが食べたいの。」
 尖らせた口からへんてこな言葉が飛び出してきた。
 ガレット?なんだそりゃ?食べたいって言うんだから、きっと食い物にちがいない。まったく近頃のおんなはいろいろとしゃべるもんだ。
「ガレットかい。西小山にいい店があるよ。」
 俺は思いっきり知ったかぶってやった。ガレットがなんだっていうのさ。知ったこっちゃないよ。俺の目的はただひとつだ。
 新調したロンドンブーツ。靴ずれがひどくて、はやいとここいつを脱いでしまいたい。でもブーツを脱いだら、忠臣蔵だからな。そんときはこのベルボトムも脱いでるってわけだ。
「でも、フィレミニオンもいいかも。」
 おいおい、ガレットはどうした。ちょうど俺よりふたまわり年下の菊子も今年でもう三十路じゃないか。そんなアニメ声は、そろそろ卒業したらいいのにな。
「それはまた今度だ。今日はガレットにしよう。」
 俺はそう言いながら、西小山までの切符を二枚買った。西小山にはいい連れ込みがある。ガレットは撒き餌さ。なにも知らない菊子はスマホのゲームに夢中だ。
 西小山の駅前はいつもながらの、いい感じのさびれかたで、行き場のないジジババがたむろっている。俺が若い頃には、生きのいいリーゼント連中がうんこ座りして、シンナーや煙草をやっていたもんだが、いまじゃ、シルバーカーにチワワを乗せた、四十年前のヤンキー連中ばかりだ。
 もちろん「銀や」にはいる。いつもの店だ。
「ホッピー白ふたつ。それとポテサラにメンチ、あとガレットをたのむ。」
ハードケースにはいったギターを店の隅に立てかけながら、俺はバイトのおばさんに注文した。

「あいよ。」

おばちゃんは大きく厨房に声をかけた。

「ポテサラ、メンチにガレットね。」

奥の焼き鳥台から、老主人がひょっと顔をだして尋ねてきた。

「ガレットはどうするんだい?」

菊子はスマホから目をあげると、

「コンプレットで!」

なんだそりゃ。

「あいよ!」

って、おいおい、ガレット知らないの、俺だけかよ。なに気取ってやがるんだ。ちきしょー、みんなどいつもこいつも昭和生まれじゃないか。そうはいってみたものの気になるな。俺はなに食わぬ顔をしながらホッピーを流し込み、ガレットとやらがでてくるのを、ドキドキしながら待っていた。

二、「やくざな俺」

 おいらはドラマー、やくざなドラマー、おいらが叩けば嵐が吹くぜ〜。あれっ、おいらが怒ればだっけ?嵐を呼ぶぜ〜だよな、きっと。
裕次郎はなんで死んじゃったんだろう。病気だな。タンタンスタタン、タン、スタタタンってね、カッコよかったなあ。
 煙草もうないのか。おい、菊子、起きろよ。もう十一時だよ。帰るよ、俺は。なんだよ、昨日と全然ちがう顔じゃないか。どうなってるんだよ、これ。ほんとに菊子なのかな。ちょっと不安になってきた。
 なんかときどきさ、五十四にもなって、こんなことしてるのってどうなのって思うときがあるわけよ。ロンドンブーツ履いて、イキがってみても、もはや長髪どころかハゲタカみたいだし、ガットギターじゃ「禁じられた遊び」のイメージだもんな。やくざなロックミュージシャンを目指していながら、前期高齢者フォークじゃさ、中学の同窓会だって出れやしないよ。
 おい、菊子、起きろよ。しかしよく寝るね。おまえ、ブスだけど、いいおんなだよ。だって、こんな昭和な俺にくっついてんだもんな。そうだ、菊子のために曲を作ってやろう。それくらいしかできない俺です。
 俺、むかしニューヨークに憧れて、よく「ニューヨーク・オールスターズ」とか聴いてたんだよね。サンボーンのアルトサックスがさ、フラジオっていうの、なんかこう泣けるんだよね。でもリーダーは深町純だったな。日本のバンドか?でも外人が多かったよ。
 決まった。題は「菊子の笑い」。まさか「サラズ・スマイル」のパクリだとは、誰も気がつきやしないよ。この世知辛い平成の世の中、パクリには要注意だ。いいじゃねえか、そんくらいって言いたいけどね。まあ長いものには巻かれますよ。もうイキがってもいられないしね。でもさ、考えてみれば俺くらいだと、パクっても誰もどうこう言わないか。ぎゃー、自虐だな。じゃ、思いっきりパクって「菊子の笑い」を作ろうじゃないのって、開き直ってどうするのよ、俺。
 おっ、菊子起きたね。ヨダレふけよ。もう十一時過ぎだよ。朝マック終わったけど、メシどうする?俺はもうガレットだけはご免だよ。

三、「朝の連続テレビ小説」

 菊子のやつがグズグズしてやがって、朝メシが昼メシどきにあたって、さすがのマックも久しぶりの賑わいだ。やっぱマックは俺らのソウルフードだなと、ビックマックを食べるたびに思うよ。
「ねえ、マリリン・モンローって、『のーまじーん』だって知ってた?」
 菊子は紫芋シェイクを飲みながら、悪戯っぽい上目づかいで聞いてきた。まったくなにを言いだすかわかったもんじゃない。まあ、菊子はのろまだけど、この目が可愛いといえば可愛い。
「えっ、ローマ人?マリリン・モンローって、ローマ人だったのか。」
 菊子はぷすりと笑った。
「ちがうよ、紀元前じゃないし。ノーマジーン。の・う・ま・じ・い・んだよ。」
 脳魔神?なんかすごいな。超能力者みたいなことか。
「ふーん、そうなんだ。そりゃびっくりだ。」
 さすがに寄る年波にはかなわないというか、この頃はマックフライポテトの油がきつくなってきた。
「だよね。あたしにとっちゃ松田聖子が『かまちのりこ』だったのと同じくらいの衝撃だよ。」
 妙に深刻ぶった顔なんかして、よっぽどなんだろうな。
「で、モンロー、ていうかその『脳魔神』はどんなことできんの?」
 俺の頭のなかで脳魔神の姿がモリモリと湧き上がり、巨大化して新宿の街を暴れまわっていた。その目からは黄色い光線が発射され、コマ劇場が破壊されてしまった。マリリン・モンローのような大魔神。それが脳魔神なのだ。俺はブルッと震えた。
「あれ、やだ、こんな時間じゃん。バイト遅れるし。」
 急に立ち上がった白いTシャツのしたで、菊子のおっぱいが小さく揺れた。ブラぐらいしろよ、まったく。
「また、連絡するよ。じゃね。」
 そういって紫芋シェイクを握りしめたまま、菊子は行っちまった。
 そうかい。そうかい。マクドナルドの二階席。氷が溶けたコーラがはいった紙コップをじっと見つめる俺だよ。
 遠くで女の悲鳴のようなものが聞こえて、窓の外に目を移す。そのずっと向こう、高層ビルと家電量販店の間を、脳魔神がゆっくり歩いていくのが見えた。

四、「ロックに死す、か」

 つくづくと、悪いことはできないと思う。スーパーオオゼキあたりでおまかせ日替わり弁当をくすねるくらいならまだしも、ワイドショーでやり玉にあがるような、そんな悪いことはいけない。
 国鉄のケーブルを燃やしてたやつが捕まった。「自称」ミュージシャンだって。俺はゾッとするよ。もし俺が捕まったらテロップで「自称ミュージシャン、イゲロップ耳なしこと大林信夫」ってでるわけだろ。もう考えただけで頭がどうにかなりそうだ。ミュージシャン大林信夫ならいいが「自称」ミュージシャン大林信夫はだめだ。
 第一、この「自称」ってなんだ。俺の音楽性そのものが真っ向から否定されている。俺は否定されてもいいが、俺の音楽性は譲れない。俺のロックがそれを許さない。だめだ、だめだ。ああ、なんだか冷汗がでてきた。

「名前は?」
「はあ‥、大林信夫です。おおきいはやしに、しんじるおっとです。」
「職業。」
「‥‥。」
「職業は?」
 俺は考える。ここでミュージシャンと答えれば、テロップで「自称」ミュージシャンとなってしまう。それだけはどうしてもいやだ。
「おい、どうしたんだ。ないのか。」
「あう、そ、総理大臣‥。」
「なに?」
「職業は、ゆうひが丘の総理大臣です。」
 バンッ!机にたたきつけたバインダーが割れた。
「き、貴様、本官を愚弄する気か!死刑にするぞ!」
「‥‥。」
「おいっ!」
 いまにも殴られそうだ。でもこれでいい。俺はミュージシャンなのだ。不思議と気持ちが静かになった。
「以後、黙秘します。」
 若い刑事が、運ばれてきたばかりの俺のカツ丼を取り上げた。
「貴様〜。死刑だ!死刑だ!死刑だ!」
 俺は目を閉じる。「自称」ミュージシャンよりは「自称」ゆうひが丘の総理大臣のほうが、よっぽどましだ。俺はロックの魂に殉ずる。音楽のためなら喜んで十三階段をのぼろうじゃないか。菊子、さよなら、ありがとな‥。
 

 うわっ、ブルブルって我にかえったよ。いかんいかん、やっぱり悪いことはできない。スーパーオオゼキでおまかせ日替わり弁当をくすねるくらいならまだしもだ。そう簡単に死ぬわけにはいかんよ。

五、「俺だって、所信表明」

 よっこいしょっと、って言っちゃったよ。いけない、いけない。俺たちロッカーにとっちゃ、よっこいしょはご法度だよ。ダメだろ、俺。
 しかしこうやってかがんだだけでも、自然とよっこいしょがでてくるっていうのは、ロッカーとして、もう引退間近ってことなのかもしれないな。なんてつい、弱音のひとつもでるっていうもんだよ。なんといってもこの腹がネックだな。まえはさ、ロンドンブーツを脱ぐときに、おへその下あたりでひゅっと上半身が折れたもんだけど、いまじゃおへその上あたりに大きな線ができてね、肉と肉が重なる、なんか生温かい感触があるんだよね。このロンドンブーツもずいぶん履きこんだな。イギリス国旗の模様がもうすっかりはげあがっちゃって、これじゃウクライナの国旗だよ。ウクライナの国旗はよく知らないけど、きっとこんなんだと思うわけよ。でもさ、自分で言うのもなんだけど、俺くらいロンドンブーツが足の一部になってる奴もめずらしいと思うよ。街歩いてて、おそらく全員気がついてないね、このベルボトムの中身がロンドンブーツだってことに。それくらい自然と歩けてる自信があるよ。
 こうやってウクライナブーツを脱ぐと、やっぱ俺、背低いね。こどものときからタバコ吸ってたのがいけなかったな。いまの若い子たちなんか、ほらタバコとか あんまり吸わないでしょ。だからみんな背が高くて、足も長いんだよ。俺は小六から、やってたからね、タバコ。いまから思うとあれがよくなかったな。
 ベルボトムをたくしあげて、あらためて「ただいま」といってみるも、ひとり。はやく風呂付きに住みたいなと。
 テレビはなにをやってますかね。おっ、ひさしぶりにみたぞ、総理大臣。大切な話なら聞いておかないとね。ふーん、そうなの。国民の平和と安全な暮らしを守る法律ができたみたいだな。これでひと安心ってことなのかな。しかし俺たちがそんなに侵略戦争の危機にあったなんて、まったく気がつかなかったよ。俺って 音楽以外のことには、まったくうかつなんだよね。でもよかったよ。これでもう侵略はないんだね。だれが侵略してこようとしてたのかな。またアメリカか。原爆とかはもうごめんだよ。
 おっ、それと新しい矢をまた三本撃つんだ。まえの三本はどこに当たったのかな。今度のやつは俺のとこにもくるのか。そのあたりは大いに期待だな。ちょっとまてよ、しかしなんでいつも矢は三本なんだろう。うーん、それにはきっと深い意味があるはずなんだよ。矢が三本。三本の矢。三つの矢。三本の‥。

「エゲロップよ。」
 目をあげると、驚いたことに、水のうえにひとが立っているではないか。
「こ、これは、総理大臣!」
  俺はあわててひざまづき、こうべを垂れた。

「エゲロップ、いま、おまえが、まさに、この池に落としゅた矢は、すなわち、この三本のうち、どれといえますか?」
「矢でございますか?いや、俺は、いや、自分は‥。」
「おまえがいま、まさに、落としゅたのは、この金の矢なのか、それとも銀の矢か、はたまたこの木でできた矢と言えるでしょうか?」
 総理大臣の両手には三本の矢が扇のように広げられていた。
「じ、自分は‥、なにも‥。」
「エゲロップ、いいですか。正直に言っていただきたい。おまえが落としゅたのは金の矢なのか、銀の矢か、それとも」
「総理、お言葉ではありますが、自分はロッカーでありまして、この胸に誓って申し上げます。金の矢でございます!」
 俺は胸に右手をあてて、総理大臣をゆっくりと見上げた。
 総理大臣は、いつものひとをバカにしたような薄ら笑いを浮かべて、俺のことを見下ろしていた。霧がさらにたちこめ、それとともに総理大臣の姿も消え入りそうだった。
「総理!」
 身体が足のほうから消えていく。総理大臣の目はもはや笑ってはいなかった。俺は見下され、完全にコケにされたことに気がついたが、もはや遅すぎた。
すべてが消え、総理大臣のことばだけがこだまのように響いた。
「愚民め、おまえには矢はやらぬ!」

 俺は、あわててテレビを消した。風呂屋がしまる時間が迫っていたので、タオルとパンツをもって、逃げるようにして外に出た。

六、「呑んで応援」

 一億総活躍!ありがとうございます!
 俺も一億人のなかに入れてもらってるのでしょうか、総理。活躍しない二千万人のなかにはいっているかもしれないと思わなくもないのだけど、それは通知とかがくるのか、どうか教えていただきたい。マイナンバーと一緒に「活躍」とか「不活躍」とか、ハガキがくるんですかね。待ってます。
 しかしまいったな。ほんとまいった。なにがまいったかといえば、パスワードだ。俺も一応ね、一億総活躍したくて、いま頑張ってるんだよ、コンピューター。でもね、こうしていちいちパスワードとかきかれても無理なものは無理、とはっきりいわせてもらうよ。
 いやね、同じもんにすりゃいいじゃんてさ、菊子とか言うんだけど、あるときは八文字以上、あるときはなんでもいいよじゃさ、俺としても、いろいろ考えちゃうんだよ。パスワードってさ、考えるの楽しかったりするわけよ。そんでさ、次の日になったら、そんなの忘れるに決まってるじゃんか。だから無理っていってるんだよ。それをさ、ひとをバカにしたように「お忘れですか?」って言われても、こうなったら意地でも思い出したくないね。
 しかし、しかしだ。これはまずい。ちゃんと思い出さないことには、どうにもならん。俺の大事なアレがしまってあるのに、パスワードが思い出せない。
 やばい。ああ、くそっ、なんだっけな。絶対俺の好きななんかからパスワードしてるはずなんだよ。えーと、「かぐや姫」だっけなと。Kaguyahime と‥。ブーって、なんだよ。チクショー。「キヨシロー」だっけかな。Kiyoshiro‥、えい、どうだ! ブーって、貴様、なにさまのつもりだよ。すごい焦せる。まじで、俺ってなにが好きなんだっけ? もうそれすらわからなくなってきた。ファラ・フォーセット・メジャースか。綴りがわからん。やばい。ほんとやばい。松本コンチータ、スマイリー小原、どおくまん、マッドアマノ、チョコボール向井、ああ、みんなちがう。もうやめたい。にんげんやめたい。こんなパスワードひとつで、こうもコンピューターごときにコケにされるとは思いもしなかったよ。
 タバコ吸お。しかしタバコもさ、コンビニで「四十七番」とかっていってさ、すんごい高いカネ払ってね、そんでパスワードがわかんなくて、悲しくなって、吸うわけだよ。これってさ、ひょっとして「思うツボ」なんじゃないの?
フ〜っ、うまいんだけどね、あーあ、フ〜っ。
だめだ、活躍できない。落選だ。やっぱり俺にはロックしかない。

七、「複数形を考える俺」

 ひょんなことで俺はいま考えている。偶然だが、発見してしまったのがいけなかった。なんだよいきなりって思うかもしれないが、世の中には単数形と複数形がある。これはすごい昔に英語で習ったからよく知っている。このあたりのことをずっと考えていて、自分で言うのもなんだが、最近すごい。いてもたってもいられず、知識をひけらかしてみたくなった。早速、菊子に連絡だ。もちろん、いま流行りのLINEでだ。
「ヒューヒューヒュー」
「イゲさん、なんすか?」
「いや、ちょっとね。菊子は英語でマウスって知ってる?」
「ネズミですかね」
「じゃさ、マウスの複数形って書けんの?」
「マウスズかな。にごるんだよね」
「ヒューヒューヒュー」
「なんすか?」
「答えはマイスなんだよ。英語で書くとmouseが複数形でmiceになる」
「?」
「だろ。だからさ、ミッキーマウスがたくさんいるとミッキーマイスになるってことだよ」
「ふーん」
「いま俺さ、この複数形にとりつかれちゃってさ、こうして寝れないでいるわけよ」
「えーと、あしたバイトなんで」
「あれっ?興味ない?」
「寝ます」
 プツッ。ちえ、なんだよ。そうじゃないんだよ。俺が言いたいのはこれからなんだけどな。まあいいか。
 しかし「エロ」ってなんで「エロス」って複数形になると、上品になるんだろうか。そのあたりを菊子にききたかったのだが、話のもっていきかたでしくじったようだ。
 「エロおやじ!」っていわれると、妙に傷つくんだけど、「エロスおやじ!」っていわれると、なんか不思議と応援されてるように思うんだよね。「もっとがんばれ!」って。この違いというか、差がわからんのだ。エロがいっぱいあればいいということなのか。中途半端なやつは「エロおやじ」で、もう開き直っていくところまでいって、いっぱいエロの王位を得たやつこそが、「エロスおやじ」と呼ばれて、なんか許してもらえるということなのか。
 俺ももっとエロを極めていかないといけないようだ。そのへんを菊子に相談してみよう。やはり俺としてはロッカーというプライドもあるし、「エロおやじ!」と言われる事態は、どうしても避けなければならないからな。
 俺のエロはどうしたら複数形になるのか。俺はいま真剣に考えている。

八、「猛る!たける!ラクビー熱」

 「自称」ミュージシャンといわれないためにも、なるべくアルバイトはしない信条だが、やはり背に腹はかえられん事態は、月末とかにやってくるものだ。あまりひんぱんに菊子にせびるのも気がひけて、近所のせんべいやでちょっと働くことになった。
「ごめんください。」
 古びた軒先には丸いガラスの入れ物にいろいろなせんべいが押しくらまんじゅうしていた。
「いらっしゃいませ。」
 奥から主人らしい男が現れた。足を悪くしているのか、びっこを引いている。
「あ、いや、そうじゃないんです。表の張り紙を見たものですから。」
 そう言うと、主人はにっこりと笑った。
「うちで、働いてくれますか。」
 不自由な足をたたむのにも、ひと苦労のようで、床に手をつきながら、ゆっくりかがんだ。
「どうでしょうか?」
 俺はこの抜けかけた長髪が、老舗のせんべいやにふさわしいものか、昨日のコンビニや一昨日のスタバみたいに断られるかもしれないと、連日の不合格に気持ちが弱っていた。
「では、面接をしましょう。」
 笑ったまま、主人はたずねてきた。
「あなたはなにが好きですか?」
 いきなりの予期せぬ質問に、あわてる。不意をつかれたかっこうだ。
「あ、あう、いや、デスメタルやガンズも好きといえば好きですが‥、うん、それだけじゃなくて、ピストルズもプログレも大丈夫です!」
 主人の目がキラリと光ったように思った。
「ラクビーはどうですか?」
 ラクビー? これはまいった。苦手ジャンルに冷汗がでてきた。ここで落ちたらやばいことになる。ラクビーごときで落ちるわけにはいかない。
「ラクビーですね。いいですよ。」
 俺は精一杯こたえた。もう徹底的に知ったかぶってやる。
「五郎丸さんはどうですか?」
「ごろうまる?えっ、ごろうまる‥。」
 やばい、わからん。ごろうまる、あれ、ごろうまるじゃなくて、じろうまるかな。なんか記憶にひっかかってきた。じろうまるって、ひょっとしてジローラモのことか。ちょいワルだ。
「ああ、はい。イタリヤ人の。」
 店主の厳しい目が和らいだ。
「では、明日からお願いします。十時にいらしてくださいね。そのとき、簡単でいいんで、履歴書みたいなのを持ってきてください。」
 そういうと店主は、よっこいしょと立ち上がり、奥へ歩いていこうとした。
「あの、俺は、採用ですか?」
 近くにあった醤油せんべいを一枚手にとって、俺に差し出した。
「はい、そうですよ。」
 俺はせんべいを受け取って、深くあたまを下げた。醤油の匂いがぷんとして、世の中はまだまだ捨てたもんじゃないなと、そんなことを思った。

九、「歩き疲れた街」

 あしたから仕事か。もうヒモとかいわせないよ。しかし緊張してるせいか、寝つけないな。ああ、くそ、こういうときはあがった気分をさらにあげてやろう。爆音ヘットホンにてガンズだ。
 くーっ、いいなあ。やっぱこういうのやりたいよな。本気で再結成考えようかな。『イゲロップ、アルキスタン&ブッキー』。二十年前に充電期間にはいってから、もはや凍死状態のこのバンドだが、当時はなかなか人気があったんだぜえ〜って、スギちゃんになっちゃったよ。
 アルキスタンのやつはジャコの真似してさ、肩をこう、いからしてね、ベースブンブンだったけど、このあいだ会ったら、なんかただの猫背で、姿勢の悪いジジイになってたな。ブッキーもあちこちの関節が痛いっていう話ばっかりで、サワーが苦くなるばかりだよ。
 レコードのライナーを久しぶりに読もうするんだけど、いやだな、にじんでぼやけてるよ。この部屋暗いからかな。うーん、よく見えないな。あれっ、あれっ? もしかして、これって老眼とかじゃないの。まじか。やばい。シャレにならないよ、老眼は。ロッカーが老眼ってどうなのよ。ぎゃー、死にたい。アルキスタンの猫背とブッキーの関節痛に、そんでもって俺が老眼になったら、万一再結成しても、それこそ『老眼ズ N’老背ズ』になっちゃうじゃんか。えー、もはや絶望的だ。ガンズはこんなにかっこいいのにな。
 『老眼ズ N’ 老背ズ』か。でも、考えようによっちゃ、これでいいのかもな。イギーだってキースだって、みんな年寄りだよ。言わないだけで絶対老眼にきまってる。そうだよ。なんたって東京はパラダイスシティーだからな。これでいいのだ。あがってきた。

「レディース・アンド・ジェントルメン!お集まりいただきました紳士淑女のみなさま、今宵、当劇場におきましての、ベリー・シークレット・サプライズへようこそ!」
 やっぱり玉木さんの司会ぶりは見事だな。こうして舞台袖で見ていても、お客さんたちの注意をビシッと集めてるのがよくわかるよ。俺はふたりのほうに振り返る。
「どうだい、ブッキー、膝の具合は?」
「なんてこたあねえよ。きょうぶっ壊れたって本望さ。」
「ははは、ちげえねえ。アルキスタン、胸はっていこうぜ。俺たち、間違ってなかったよな。」
「ああ」
 長身のアルキスタンは相変わらず無口だ。背が高いから猫背が目立つんだよといいかけてやめた。
「伝説の、といわれるバンドがあります。これからみなさんの前にあらわれるバンドも、もちろんそのひとつ。彗星のごとく現れ、私たちの心をえぐり、めちゃくちゃに翻弄して、突如として充電してしまった、あのバンド。充電から決して覚めなかったあのバンド。だれもが地下で噂するあのバンド‥‥。」
観客たちのボルテージもマックスにあがってる。ここでめいっぱいためるところが、さすが玉木さんだ。自然と手拍子が起こる。玉木さんは絶叫する。
「『イゲロップ、アルキスタン&ブッキー』あらため『老眼ズ N’ 老背ズ』の登場です!」
 俺たちは袖を飛び出し、舞台へと走り出した。ものすごいスローモーションだ。時間は異次元へ飛び、ゆっくりとすすむ。俺は観客席を見つめ返す。スポットライトの逆光のなか、かつてのフラワーたちが、見事なタキシードとドレスで着飾って、席を埋め尽くしていた。すみずみまでだ。みんなの顔が高揚している。俺もマックスだ。東京はパラダイスシティー。俺たちの人生の時間に乾杯。すぐうしろで、ブッキーのやつが勢いをつけすぎたのか、前のめりに転んでグルグルまわっている。アルキスタン、生きのいいベースをたのむぜ。玉木さん、ありがとう。
 しんと静まり返った劇場。俺はマイクの前に立つ。ブッキーはまだドラムにたどりついていない。なにかしゃべらないとな。のどがカラカラだ。みんなが、この俺の第一声をじっと待っている。俺の頭の中はまっしろだ。神よ、この身体を通して、なにかをみなに伝えてくれ。俺は息をのみ、ことばとともに吐き出した。
「マ、マイナンバー‥」

ジリリリリリリリリリ!
目覚ましがけたたましく鳴った。ばかでっかいヘッドホンをはずして、起き上がる。九時半か。うーんとひとつ、大きく背伸びをした。
よし、きょうから働くぞ。

十、「ちょっといい話 頂上決戦(前編)」

 なかみおかわり!って、自己嫌悪だよ、まったく。坂田さん、今日は俺さ、「まことや」、ほら角っこのせんべいやさんあるじゃん、あそこで働く初日だったんだよ。ビシッと決めてさ、出社したわけだよ。そしたら履歴書っていうの、あれ書くの忘れてて、いけねって思い出したときは、もう店のまえだよ。ねえ、坂田さん、わかるよね、そういうときの落ち込みってさ。はんぱじゃない。俺もこう見えて結構ちゃんとしたところあるから、忘れ物とかちょっと許せない自分がいる。でも、それとおんなじくらい遅刻も嫌なんだよね。いまから書くっていったってさ、5分前だよ。忘れ物かそれとも遅刻か。どうする俺って、つっ立ったまま店先で考えてたんだよ。そしたらさ、なかからお女将さんらしい綺麗なひとがでてきてさ、

「あらっ、どうなさったの? ささ、どうぞ。」

ってさ、さりげないって、ああいうのをいうんだね。廊下に立たされていた俺を教室にいれてくれる保健室の先生みたいなんだよ。でさ、まことさんにね、まことさんって、店の主人なんだけど、足が悪いんだよ。びっこ。

 おっ、ありがとう、ハルちゃん。なかみおまけしてくたね。だから来ちゃうんだよ。この商売上手。でさ、なんだっけ? ちょっと待ってて。うわっ、濃いな、ホッピーとのバランスが悪すぎる。これじゃ、大五郎のホッピートッピングだよ。うーん、あれっ、坂田さん、なんだっけ? 保健室の先生? そうか、そうそう、それでね、俺は正直に話したんだよ。

「すみません。」

 まことさんは穏やかな調子でたずねた。

「どうしましたか?」

「いや、あの、昨日言われていた履歴書をですね‥。」

「はい。」

「忘れました。」

 俺は腰から直角に曲げてあやまった。

 まことさんはゆっくり立ち上がると、小机の脇に座り直した。

「そうですか。そんなことで店の前でうつむいておられたんですね。」

「なんかはしゃぎすぎてた自分が、急に恥ずかしくなって‥。俺、まだなんにもできてないのに。」

 まことさんは新聞のチラシをいくつかめくると、薄いピンク色の、パン屋のセールを知らせる紙を拾い上げた。

「はい。これに書いてください。名前とか住所だけでいいんです。」

「えっ?」

「履歴書なんていったあたしが悪かったんですよ。ひとはね、紙っ切れじゃない。そんなもんではかることなんかできやしない。どう生きてきたかです。顔ですよ。あなたの顔が履歴書そのものですから。」

 このひとなに言ってんだと思ったけど、俺は感動していた。

「ただね、名前もわからないと、なんて呼んだらいいか困るじゃないですか。そんなところです。それと、もし電話があれば、一緒に番号を書いておいてください。」

 俺は、渡されたピンクのひらひらした紙に、エンピツで書いた。俺の名前と住所と電話番号。書き上げてすぐ後ろに目をやると、にっこり微笑む女将さんの姿があった。

「どうだい?」

「ふーん、もういいかい?」

「なんだよ、坂田さん。ちょっといい話だろ?」

「じゃ、今度は俺の番だ。」

 そういうと、坂田さんは盃をぐっとあけ、話し始めた。

十一、「ちょっといい話 頂上決戦(後編)」

 俺が育った村は、秋田の山のふもとにあってさ、そりゃなんもないところだったよ。いまじゃ、田圃のなかにおっきなジャスコ、じゃなくてイオンがたってるけどね、俺らがガキのころはなんにもなかったよ。駅までも遠いし、商店街っていったって、日用品くらいでさ、なにがあるってわけじゃない。ちょっと洒落たものをと思ったら、仙台までいかなきゃならんのだけど、いまみたいに交通もよくないからさ、ちょっとした旅だったよ。

 俺らもいい年になってさ、思春期みたいの、雑誌やラジオで東京のことなんか一生懸命覚えたりしてね。すげえんだよ。駅前の本屋でさ、「ぴあ」とか売ってんの。そんでさ、うわっ、明日、明菜のコンサートだとか、外タレのだれそれが武道館でやるぞなんてね、行けるわけないのに、知識だけはすごいんだよ。マリオンクレープはなにが一番美味しいかなんてね。そんな話で休み時間盛りあがったもんだよ。

 そんなときさ、いまでも忘れられない。1983年の8月21日。俺たちは「パー兄ちゃんの日」って覚えてるんだけど、その「パー兄ちゃん」の日に、隣町の公民館で「銀蠅一家」がコンサートやったんだよ。銀蠅一家、すんごい奴らだよ。だって、こんななんにもないド田舎さきて、歌っこきかせるって、あの当時、そんなことやるのは演歌歌手以外、誰もいなかったわけさ。しかも横浜銀蠅だけじゃなくてさ、弟分たちとかも連れてきちゃうって、ありえねーって、みんなで話してて、もうあちこちの村から若い連中が、それこそワッて集まって、公民館がパンパンで、入られねえのもでたりして、そりゃあ大騒ぎだったんだ。

 で、コンサートも、もうものすごくよくてさ、みんな大、大、大感動して、しばらくあのあたりは銀蠅一色っていいくらい、銀蠅ブームが巻き起こったわけさ。高校も中学も、もう校則変えてリーゼントオッケーになって、畑仕事してる若いやつらはみんなリーゼントでね。けっこうなもんだったよ。

 そんでさ、そんななか、若いのがみんな結婚とかして、こどもできるとさ、みんなして名前を「翔」にしたんだよ。女の子は「翔子」だし、ふたりめができれば「翔二」とか、たまに「嵐」とかもいたっけな。とにかく翔、翔、翔なんだよ。それでさ役場とか学校が困ったのは、うちの集落はみんな「坂田」だからさ、ひと学年に「坂田翔」とか「坂田翔子」が、ごろごろいるわけさ。先生も出席とるの、ひと苦労でね。

 「坂田翔〜」ってよぶと、「ハイ!」「ハイ!」「ハイ!」「ハイ!」って、あちこちから手をあげるから、しまいには番号で呼んでたね。いま思うとさ、あのこどもたちは、銀蠅一家が産み落としていった小蝿だな。横浜小蝿‥。そう思うよ、ブンブンうるさかったもの。

 そんでさ、そんな小蝿たちも大きくなってさ、みんな仙台や札幌や東京に飛んでいっちゃってさ、もどってきやしない。ジジババはどんどん死ぬしね、ほんとの過疎村になっちゃって、今年いっぱいでジャスコ、じゃなかったイオンか、イオンも閉店だっていうしね。いったいどうすんだって、そんな話だよ。

 俺はあきれた。

「坂田さん、それのどこが『ちょっといい話』なんだよ。」

 坂田さんは悲しそうな目を遠くにやりながら、盃に酒を注いだ。

「悪いけど、今日のところは、俺の勝ちだな。」

 俺はすぐまえで、もくもくとキャベツを切っている大将に合図するために、ゴンゴンとカウンターを叩いた。

「シゲさん、判定をたのむよ。」

 大将の手がぴたりと止まって、ゆっくり顔があがった。しばらくしてから、ぽつりと、

「坂田さん。」

 とだけ言った。ありえん!

「ちょっと、まじかよ。シゲさん、ねえ、ちゃんと聞いてた? えーっ、納得できないな。どう考えたって俺でしょ。おかしいよ。」

 隣で坂田さんがうれしそうな顔をして酒をあおった。大将が一度くだした判定は、決してくつがえることはない。

「なんだよ。まいったな。ちょっと待って。いま菊子に電話して、お金持ってこさせるから。ねえねえ、ハルちゃん、ここまでで、いったんしめて。お会計、ここ一緒で。」

十二、「幸福な活躍の予感」

(前回までのあらすじ)年間200軒のラーメン店つぶれるといわれる大都会TOKYO。しかし息絶えた居抜きの店舗は朽ちることなく、すぐまたあらたな挑戦者たちのために、内装業者が今日も汗を流す。負け打ちひしがれし者は去れとはげしく鞭打つ、そんな大都会の片隅に生きるひとりの男、イゲロップ耳なし大林信夫は、総理大臣の「一億総活躍せよ!」との使命を遂行すべく、「せんべい処まことや」の門を叩いたのであった。

「社長、書けました。」

 俺はパン屋のチラシの裏に書いた字が、我ながらあまりうまくないのを気にしていた。

「はい。」

 そういって社長はそのピンクの紙を受け取ると、老眼鏡を手際よくかけて、片方の手をそえながら読んだ。

「イゲロップ耳なし大林信夫さんは、ずいぶん長い名前なんですね。なんと呼べばいいですか、」

「ああ、それですね、イゲロップっていうのは、俺はミュージシャンなんで、そういうあだ名、じゃなくて、なんだっけ、ニックネームというか、うーん、そうそう、芸名だ。芸名なんです。そんで耳なしっていうのは、うちの音楽一門の屋号みたいなもんなんです。」

「ほう、一門の屋号ですか。」

 社長は老眼鏡を持ちあげると、興味深そうな顔をした。

「ええ、そうなんです。なんていったらいいのかな、ほら、落語だったら談志の弟子はみんな立川じゃないですか、あれと一緒です。志ん生の弟子なら古今亭だし、蕎麦屋だったら長寿庵とか増田屋ってね。よし、おまえ店だしていいぞっていうしるしみたいなもんです。そんでもって大林信夫は、ばあちゃんがつけた名前です。」

 社長をまえに、一気呵成に巻くしたところ、ずいぶんと感心したようだった。

「そうですか。よくわかりました。ということは、あなたは耳なし一門のかたなんですね。」

「ええ、そうです。」

「で、なんて呼んだらいいですかね。」

「はい?」

「いや、名前がいっぱいあって長いもんですから。」

「ああ、そうですね。みんなは俺のことを『イゲさん』とか『イゲちゃん』とか呼びますんで、それが一番馴染みがいいです。」

「そうですか。ではわたしも『イゲさん』と呼びましょう。」

「はい、そうしてもらえると。ちなみに社長は社長でいいですか?」

「いえいえ、それは困ります。わたしのことは『まことさん』と呼んでください。」

 まことさんか。俺はなんだかうれしくなって、振り返って、そこに立っている女将さんのほうに手をのばした。

「じゃ、女将さんはなんて呼んだらいいですか。」

 ほほと目を細めて、女将さんは答えた。

「私は、よねこといいますので、『よねこさん』としてくださいな。」

 よねこさん。まことさんとよねこさん。

 俺は楽しくなってきた。いいところにきたみたいだ。スタバやコンビニに断られてほんとうによかった。

 俺はここ「せんべい処まことや」で、ものすごく活躍できそうな気持ちになっていた。

十三、「名前の由来」

(前回までのあらすじ)海のない新宿にも鮫がいるのだと、そんな噂がまことしやかに囁かれる大都会TOKYO。夜ごと襲ってくる鮫の鋭い牙から身をかわし、メッセージを発信し続ける孤独のオバフィフロッカー、イゲロップ耳なし大林信夫は、「せんべい処まことや」で修行の日々を送っていた。

 菊子の右手の人差し指が、上へ下へ、ときに斜めに、実に軽快に走る。俺はポテサラをちびりちびりつまみながらその様子を見ている。まんざら嫌でもない。まことさんがせんべいを手際よく返したり、操ったりするのを眺めているのも好きだ。

「で、イゲさん、その後、どんな感じですか?」

 スマホから顔をあげることもなく、菊子はたずねてきた。

「どんなって、なにが?」

 急だったので、不意をつかれた俺は戸惑った。

「あれですよ。バイト。」

「ああ、まことやさんね。仕事なんだから、バイトっていうなよ。」

「え、なんでですか?」

「だから、仕事なんだよ。バイトじゃないから。」

 菊子はゲームをする手を休めて、こちらをキョトンとした目で見かえした。よくわからないというときの顔だ。

「バイトって言われると、なんかちょっとちがうって思うんだよ。バイトってさ、高校生がマクドナルドとかでやるものってイメージがすごくある。でも、俺のは、なんていうか、もっと地に足がついてるんだよ。」

「え、でもバイトじゃないですか。」

「そりゃそうだけどさ。でもなんかバイトって言ってほしくないんだよ。」

 俺はホッピーを継ぎ足した。こうなると面倒なので話をかえることにする。

「きょう、まことさんがね、俺の芸名がなんでイゲロップなのかってきいてきたんだよ。」

「なにか由来のようなものはあるんですか?」

 ふだん滅多に口をきかないまことさんが、まだ白いせんべいを丁寧に裏返しながら、話しかけてきた。俺はその手元をじっと見ながら、答えた。

「俺が耳なし一門にはいったころは、まだ酒がからきし飲めなかったんですよ。」

「ほお。」

「とはいってもそんなことは言えないですからね。兄弟子たちと飲るときにはウーロン茶をウーロンハイってことにしてつきあっていたんです。ところがです。悪いことはできないもんです。これが兄弟子のひとりにバレちゃって、この不届き者ってことで、罰としてウーロンハイをみんなの前で一杯飲むことになったんですよ。」

「それは、それはたいへんなことになりましたね。」

「はい。そんで、仕方ないから、ガッとやって、バタンと倒れまして。そのまま気持ち悪くなって、ゲロ吐いたんですよ。」

「ゲロですか。」

「はい。そんで『こいつ寝ゲロしやがった』ってことで、『寝ゲロだ、寝ゲロだ!』って騒ぎになりまして、俺も恥ずかしいやら、店に申し訳ないやらで、片付けようと起き上がって『すんまへん』って謝った瞬間に、プーってでちゃって。そしたら『こいつ屁をこいた』ということで、今日からお前の芸名は『寝ゲロッペ』だと、兄弟子たちの間で決まったんです。で、『寝ゲロッペ』ってしばらく呼ばれてたんですけど、それがいつの間にかなまって『イゲロップ』になったんですよ。」

「ははは、そうですか。いい話ですね。名前にはいろんな由来があるのですね。」

まことさんは真剣に俺の話をきいていたんだなと思ったのは、一枚のせんべいが少しコゲていたのを見つけたからだった。

 菊子はまたもやスマホにかかりきりだった。たまには人差さし指を休ませてやれよといいたかった。

「その話、バイト先でほんとにしたんですか?」

「ああ、したよ。ちゃんときいてくれた。」

「思うんだけど、その話、あまりしないほうがいいですよ。」

「なんでだよ。」

 菊子はほんの一瞬、顔をあげ、すぐまたスマホにもどる間際にこう言った。

「汚いから。」

十四、「合言葉は、ワインな俺たち」

(前回までのあらすじ)テロリズムに世界が揺れていた。もはや安寧とした場所などこのプラネットには存在しないのだと、まことしやかに囁かれる大都会TOKYOの夜。

 下町の小さな居酒屋「多吉」のテレビでも、惨劇は等しく映されていたのだった。「せんべい処まことや」で研鑽を積むオバフィフロッカー、イゲロップ耳なし大林信夫は、ホッピー片手に画面を見上げながら、その背中に、ヒヤリとした汗がひとすじ流れたのを感じていた。

 そのとき、ガラガラと、「多吉」の古い引き戸が開いた。ひときわ背の高い男は、ぐるりと見渡すと、みなに聞こえるようにこういった。

「ワインといえば!」

 俺は入り口に向かって手をあげて、大声でこたえた。

「やっぱり赤玉!」

 アルキスタンはこちらを認めると、狭い店内を猫背のまま、するするとすり抜けて、俺の隣に陣取った。

「たいへんだな。」

 アルキスタンは、にこりともせず、唐突にそういった。

「そうだね。」

 俺は、なにがたいへんなのかわからないのに、そう答えていた。

 アルキスタンは猫背だが、ほんとうにいいベースを弾く。きょうは「イゲロップ、アルキスタン&ブッキー」の再始動に向けての打ち合わせとして集まってもらったのだ。

「サッポロで。」

と、おしぼりと小皿に盛ったポテサラを持ってきたハルちゃんに、瓶ビールをたのんだ。

 アルキスタンは無口だ。たしかひいおじいちゃんがタジキスタン人だったと思う。そのせいか、どことなく佇まいが外人のようでもある。酔うとポツリポツリとなにか言ったりするが、それが的確な短いことばで、まわりのひとを感心、納得させる不思議な力を持っていた。ただいつも金がなく、そのない金をすべて使いきるまで飲むので、必ず帰りは「歩き」なのだ。夜中、暖簾はとうにしまわれた店から、ふらりとでて、それがどこからであろうとも、「歩いて」新高円寺のアパートまで、帰るのだった。

 長身で猫背の、そしてタジキスタンの見たこともない大地の郷愁を漂わせた奴の後ろ姿は、いつしか人々から「アルキスタン」と呼ばれるようになっていた。

「セットリストなんだが‥。」

 俺は、一杯めのグラスがあくタイミングを見計らって、あらかじめ練ったリストを差し出した。

 そのとき、木戸がガラガラと開き、ブッキーの甲高い声が店内に響いた。

「ワインといえば!」

 俺とアルキスタンは、その瞬間、見事なユニゾンでそれに応えた。

「やっぱり赤玉!」

十五、「合言葉は、ワインな俺たち」その二

「まったく近頃ときたら、個性、個性ってさ、ダセーんだよ。」

 座るなやいなや、いきなりブッキー節が炸裂した。どうだいとばかりに、上目づかいの得意顔には、ほとほと辟易するが、そこは長年来の友人だし、しかもブッキーには、やってもらわなければならない大仕事がある。

 俺は、大げさに腹をかかえて笑った。

「相変わらず冴えてるね。こないだ言ってた膝の具合はどうだい?」

「ひざーに悪いね。」

「やっぱりプリン体かな。ハルちゃん、ブッキーに黒ポッピー。」

 小学生の机を二つ合わせたような「多吉」のテーブルに、こうしてかつてのロックスターが肩寄せ合っているのも悪くない図だ。

「ブッキー、ちょうどいまアルキスタンと話していたんだけど、これでいこうと思う。」

 俺は、考えに考え抜いた復帰第一弾のセットリストをブッキーに渡した。

「おいおい、なんだよ、いきなり。飲むまえに読めってか?」

 ブッキーも老眼がひどいのか、必要以上に紙をはなして、顔をしかめている。しばらくして、

「こ、こいつは‥」

 ブッキーから、いつものふざけた表情が消えていた。

「そうだ。充電は完了したんだ。」

 黒ポッピーがテーブルの真ん中に勢いよく、ドンと置かれた。

「あたしらだって、待ってたよ。」

 見上げるとハルちゃんがニッコリ笑っていた。

「はは、そうかい。そういうことかい。こりゃ、忙しくなるな。ま、とりあえずカンパイってことで。」

 ブッキーはなかば放心したように、力なくジョッキを持ち上げた。ハルちゃんが音頭をとると、店にいた常連さんたちも、高らかに声をあげた。

「『イゲロップ、アルキスタン&ブッキー』の再始動に、カンパイ!」

 こうしてみると照れ臭いが、地元ってやつはいいもんだと思う。楽しみにして、そして聴いてくれるひとがあってのロックなんだよな。

 ジョッキを下ろしたブッキーの目はもうスイッチがはいっていた。ブッキーはなぜブッキーか。ブッキングをするからブッキーなのだ。やつには「ハコ」をおさえてもらわなければならない。これはバンド活動にとって、とても大切な仕事だ。つまりブッキングとスケジュール管理。このふたつをブッキーがこなしてくれないことには、話は前には進まない。

「しかし、いきなりだもんな。これは膝に悪いよ。膝にわるい、膝にわるい。ひざにわる‥。ハルちゃん、ラザニアあるっけ?」

「ないよ。」

 これにはアルキスタンもムッとしたみたいだが、ブッキーはまんざらでもない様子だった。

十六、「まことさんの秘密」

(前回までのあらすじ)「くそっ、まったくだめだ。お前んとこもそうだろ? だよな。いまオレのまわりで元気いいのはプーチンぐらいのもんだよ。」

 そんなグローバルな会話が飛び交う大都会TOKYOの居酒屋。かつての栄光と自信を取り戻すべく「イゲロップ、アルキスタン&ブッキー」の再結成に向けて、イゲロップ耳なし大林信夫は、きょうもせんべいを焼いていた。

 ずいぶんと焦げムラがなくなってきた。一枚一枚が均等になるように細かく位置を変えてみる。そのうちにせんべいのほうから、「裏返して」とか「もうあげて」といった、声のようなものが聞こえてくる。いい調子だ。

 畳がざあーざあーと、まことさんの足を引きずる音で集中が途切れた。

「イゲさん、ご精がでるね。ちっとゆるめたらどうですか。」

 俺は振り返って、まことさんを見上げたとき、その手にカラフルなものがあるのに気がついた。おやと思う俺の鼻先に、まことさんはその印刷された紙を差し出した。

「これね、さっき駅前で配っていたんだけど、イゲさん、一緒にどうかなと思って。」

 手にとってあらためてながめると、それはフィリピンバーの七周年キャンペーンを知らせるチラシだった。名前から駅からほど近いパチンコ屋の隣の雑居ビルにある店だとわかった。どうやらこれを持っていくと会計が二割引になるようだ。俺はまことさんの顔を見る。どことなく照れ臭そうだ。俺は場を取りつくろおうとしたのだと思う。

「まことさんは、なんでビッコなんですか?」

 不意をつかれたようだったが、すぐにいつもの和かな表情にもどった。

「ああ、これね。」

と、俺のすぐまえに腰を下ろし、動かないほうの足を投げ出した。

「ピストルで撃たれたんですよ。二年くらいまえになりますかね。」

 俺は、手の先からせんべいが落ちるほど驚いた。

「まあ、撃たれたというより、あたっちゃったんですよ。」

「えっ、だってなんでまた‥。」

 どう言葉を継げばいいかあぐねた。

「いやね、以前『耳なし』さんというかたが働いていたんです。」

 耳を疑った。俺のまえに働いていたのが「耳なし」だとは。さらなる驚きに、一体ここはどういうところなのかと、俺は眉を大いにしかめた。それを察知してか、まことさんはあわてて説明しだした。

「イゲさんと同じミュージシャンだと思うのですが、ええ、耳なし一門でしょう。で、そのかたが、どうやら公安警察みたいなものにマークされていたようで、あるとき、そのスジのひとが現れたんです。」

「公安警察がですか、ここに?」

「ええ、それで、なんかまずい雰囲気になって、成り行きでかばうようにして逃がしたんです。」

「まことさんが、耳なしをですか?」

「そのとき、拳銃がでて、公安のひともあわてたのか、暴発したみたいになって、ちょうどこのあたりに弾があたっちゃったんですよ。」

 そのとき、俺はいま考えると、しょうもないことを訊いたものだ。

「痛かったですか?」

 まことさんはニコニコしながら足をさすっていた。

「痛かったですよ。」

「どんなですか、撃たれると。」

「なんていいますかね。燃えるようなんです。足の半分に火がつけられたように。『燃えてる!』って思いましたよ。」

 俺はその痛さを一生懸命想像していた。しばらく黙っていたまことさんだったが、小さな声でこういった。

「どうします?」

 目を開けるとまことさんはすでに立ち上がっていた。

「フィリピンバーですよ。」

十七、「はじまりはフィリピンから」

(前回までのあらすじ)

もはや人種のるつぼになりきれないまま、インチキなハイブリッドのネオンが路地裏を寂しく照らす大都会TOKYO。その下を2割引のチラシを手に、フィリピンバーのはいった雑居ビルの階段をのぼっていくまことさんとイゲロップであった。

ゆっくりと開けたはずなのに、ドアについている鈴はかなりかしましい音をたてた。これではまるでイノシシの罠のようではないか。

「イラッシャ〜イ!」

俺とまことさんを迎えてくれたのは緑色のピカピカ光る、ステージ衣装のようなワンピースを着たフィリピン人だった。そのすぐあとには黒いシックなドレスをまとったもうひとりの背の高い女が続いてきた。

「コチラ、ドーゾ。」

俺たちは両脇を抱えられるようにして、奥の半円の椅子席の通された。まことさんはなぜかそのひとつひとつに慣れたような落ち着きをはらっていた。以前にもここに来たことがあるのだろうか。俺はふと女将さんの顔を思い浮かべた。

女たちは俺とまことさんを座らせると、ウインクしながら奥へと去っていった。きっとおしばりだとかお酒の用意をしに行ったのだろう。

「イゲさん、なににしますか?」

「あ、はい、いやこういうところあまり知らないんで、まことさんに任せます。」

湯気がたつおしぼりを両手に交互に渡らせながら、緑色の女がやってきた。その様子は昔よく通った床屋のことを思い出させた。

「水割りをふたつね。」

ハフハフのおしぼりを受けとりながらまことさんは伝えた。

「ハーイ、ミズワリ、フタツネ。」

女は俺のことをじっと見ると、こういった。

「アナタ、スケベネ。」

俺は顔がかーっと赤くなった。いきなりなにをいいやがると思ったが、へへへと情けない顔でこたえるのが精一杯だった。

まことさんがうれしそうにいった。

「彼女はちょっとした超能力の持ち主なんですよ。イゲさん、みごとに読みとられましたね。」

「なんですか、まことさんまで。いや、面目ないです。」

俺はおしぼりで顔をごしごしとふいて、照れくさいのをごまかしていた。

十八、「尻の匂い」

「ゴメンナサイネ。」

黒衣の女が両手に水割りのコップをかかげながら俺とまことさんのあいだに入り込もうとしてきた。すぐ目のまえをかたちのいいお尻が横切る。俺は思いっきり、しかし気づかれないように、息を鼻から吸い込んだ。尻のあいだから、なんともいえない匂いが頭のなかいっぱいに広がっていくのがわかる。俺は尻の匂いで、そいつがどんな女なのかがわかるという特技を持っている。こまかいことではなく、おおまかにこういうタイプの女だというのが見えるのだ。それほど種類があるわけでもないが、この嗅覚で自分に見合った、まあありていにいえば、分相応な女か、そうでないかを判別するわけだ。

いまよぎったこの匂いは、なんとも上品で、質のいい、知的なものだった。あまり俺の人生とはまじわったことのない、手のとどかないかぐわしさにしばしうっとりとした。

彼女は、まことさんと俺のあいだに席をとると、それぞれにグラスを置いて、さあとこちらを向いた。俺はすでにその尻の匂いで気恥ずかしくなっていたが、ちらっと横目で盗み見た。きれいな顔立ちだった。やはり質のよさが顔にもあらわれていた。

「このひとはうちのお店で働いてくれているイゲロップさん。イゲさんていうんだよ。」

「コンニチハ、イゲサン。」

「はあ。」

「イゲさん、マカティちゃんです。綺麗でしょう?」

俺はだまってうなづいた。やっぱりまことさんは何度もこの店に出入りしていたのだ。常連なのだろうか。こんないい匂いを尻からだしているマカティのとなりにすわっていられるのがうれしかったし、まことさんがうらやましかった。

軽く水割りを口にふくむと、まことさんはマカティを飛び越して、やおら話しだした。

「イゲさんね、たとえばここに5万円あって、これで夕飯を食べていいっていうことになったとします。」

「ええっ、まことさんとふたりでですか?」

「いや、まあたとえとして聞いてくださいね。では、ふたりで食べたら、ひとり2万5千円分使うことができますね。」

「はあ。」

「10人だとどうでしょう?」

「ひとりあたり、そうですね。5千円かな。」

「そう。100人だと、ひとり500円です。500円でもちょっとした総菜弁当なんか食べれるし、なんとかいけますよね。50円だと無理だけど。つまり、5万円あれば100人分の夕食がまかなえるといえますね。」

まことさんは、どうやら算数の話をはじめたらしい。俺は正直、焦った。算数はからっきしだめなのだ。グラスを持った右手が少しふるえた。すぐ横の尻からまた、いい匂いがうっすらとした。

十九、「タブレット純」

俺はまことさんのほうに向きなおりながら、マカティをちらりと見る。行儀よく座ったマカティは優しく微笑んでいた。

「しかし、イゲさん、もしぼくとイゲさんが、自分たちだけでも美味しいものを食べたいと思ったらどうなりますか。」

まことさんは何のことをいっているのだろう。

「たとえばぼくとイゲさんで1万円ずつ食べたとします。お寿司とかね。残りは3万円です。これを残った98人で割ると‥。」

俺は一生懸命暗算してみた。30000÷98は‥。やばいぞ、これはかなりむずかしい。あてられたらどうしよう。きっと俺の計算能力を試そうとしているにちがいない。

そのとき、まことさんはカウンターにいる緑色のドレスの女に声をかけた。やつはさきほど俺を「読み取った」ばかりだ。

「マビニちゃん、そこに電卓ってありますか?」

スマホをいじっていた超能力女は、すぐ自分のよこのレジあたりから首尾よく電卓を探し出した。

「ハイ、ドウゾ〜。」

「ありがとう。イゲさん、彼女はマビニちゃんです。」

「こんばんは。」

「アナタ、マタスケベナコトカンガエテルネ。フフフ。」

俺はまた赤くなった。超能力者はなにかと面倒くさい。尻の匂いを嗅ぎ分けるこの俺の力も、超能力といえなくもない。俺は息をとめて、マカティの匂いを嗅ぐのをやめた。

「えーと、割るとひとり約306円で、まあこれはこれでやれなくもないでしょう。300円以下のお弁当もありますからね。」

どうやら俺の早とちりだったようだ。まことさんには俺の計算力を試すつもりはないようだ。安心したせいか、気持ちが楽になって軽口をたたく余裕もでてきた。

「まことさん、俺もよくその弁当食べます。毎日だと飽きるけど、けっこうバカにできませんよ。」

「で、そのあと、ぼくとイゲさんはお寿司屋さんの近くの洒落たショットバーでシングルモルトなんかを飲んで、さらに5千円ずつ使ったとします。残りは2万円しかない。これで98人となると、ひとりあたりの夕食代は204円です。」

「ふーん、まあ自炊ならなんとかいけますね。しかしさっきからなんの話なんでしょうか?」

まことさんは、水割りをぐっと飲み干すと、こういった。

「格差ですよ。」

俺は驚いた。まさかそんな、格差だなんて。てっきり「タブレット純」みたいに入試問題ネタで落としていくのかとふんでだけに、格差問題とは思いもよらなかった。

俺はまことさんをみた。目がいつになく真剣だった。

二十、「まことさん、イク。」

まことさんはせんべいを焼くときのような厳しい目で、俺を見つめている。これにはほんとうにどうしていいかわからくてこまった。

「ま、まことさん、これは、いったいなんのことか、俺には‥。」

「イゲさん。」

「はあ。」

「やるんですよね?」

「なんでしょうか。」

「再結成のことです。『イゲロップ、アルキスタン&ブッキー』ですよ。」

俺は腰をぬかしそうになった。なんでまことさんが俺たちのバンドのことを知っているのか。せんべいやでの俺は無口だ。そんな再結成の話なんて一度だって、まことさんにも女将さんにもしてやしない。どぎまぎしてる俺を見て、まことさんはやっと表情をゆるめた。

「よく知っていますよ。そのことでね、イゲさんに話したくて、ここに連れてきたのです。イゲさん、さっきの格差のことですけど、ぼくもイゲさんも、ほんとうのところ、美味しいものが食べられる階級にはいないのです。」

「ええ、たしかに廻ってない寿司は無理です。でもですね、300円の弁当もうまいことはうまいです。」

「つまりこうして格差社会、差別社会がしっかりできあがって、ぼくたちは戦後はじめて『階級』というくくりかたを経験しだしているのです。」

「はあ、『階級』ですか。」

「そうです。『階級』は前からずっとあったのですが、いまこうしてすごく目に見えるかたちででてきたのです。ぼくはそれをある意味で、いいことだと思っているのです。つまり音楽をやるものにとっていいということです。」

「階級と音楽ですか?」

「ええ、厳密にいえばロックです。みなが中流意識をもっている社会に、ロックなんて音楽はただのポップスの亜流にすぎません。ぬるま湯の時代はとうに終わりました。これからはダイナミックな階級をめぐる厳しい社会になっていきます。それはまた差別が顕在化した社会でもあります!」

うわ、なんだ、どうした、まことさんが、すごく盛り上がっている。まいった、難しいことばもでてきてピンチだ。俺は一生懸命、隣に静かに座っているマカティの尻に鼻を近づけて、その匂いを嗅ごうとしてみる。

「イゲさんたちのバンドの再結成は、そこにこそ意義があります。まさに今のこの格差と差別の時代にふさわしいのです。『イゲロップ、アルキスタン&ブッキー』こそが、この国の大半を占める年収200万円以下で暮らす人々に向けての音楽、そうです、ロックを奏でるのです!」

やばい。まことさんの目が完全にイッている。俺もマカティの尻の匂いでどうにかなりそうだ。

(後編へとつづく)