1、「寒茜」

「聞くこと」が仕事だといえば、なんだか格好をつけているようで面映いのですが、当人にとっては一番しっくりとした実感があります。
「聞く」は「聴く」でもよいし、「耳をそばだてる」や「耳を傾ける」でもかまいません。大切なのはその向こうに「その音」を発する対象の存在を強く意識することなのです。その音がいいものであれば、なるべく手を加えず、私の身体を通ったままにアウトプットしたいと考えます。

実にいろいろな音が聞こえてきます。ほんとうに数えきれない音が聞こえてくるのです。しかしそのほとんどが、私という身体の電極を反応させないまま、ただただ放電していくばかりであります。
はなから聞くことの入り口である鼓膜にいたるまえで門前払いとなってしまうことも多くあります。「聞くこと」が仕事である私は、日々、内側に潜むその電極の針の先を磨いているつもりでいますが、どうしたものか、なかなか響いてこないのもまた事実であります。

いつからかそれが一番の悩み事となってしまいました。広告の音にたずさわりながら、私の耳が響かない。音の責任をとる私の耳が響かないものが、テレビを視聴するかたがたに、はたして響くのであろうか。そう自問するのです。
ことばがどうにもまずいことになっていると、再三これまでの文章群で書いてきたように思います。むしろそのことしか書いていないような気もしています。
それは昨年の三月十一日以前は、思いたくもない不吉な予感としてあったのですが、大震災以後は、もはやまぎれもない確信となってしまいました。

「今年の春は、ひどくふさぎこみました。何も話したくないし、書きたくもない。そんな気持ちがずいぶん長いこと続きました。大震災にではないのです。かの自然災害にどう処したか、そこでどんな『ことば』が流通していたか。それはこの上なくひどいものでしたし、いまも状況はかわっていません。」

震災の年の暮れに私はこう記しました。

内実のないことばの群れに対する嫌悪感と拒否反応はすさまじく、「聞くこと」を生業とするはずの私自身の身体が音を拒むという状態に陥ってしまいました。ぬけがらのような日々。
その嫌がうえにも聞こえてきてしまういちいちに腹立てることもなく、ただやみくもにふたりの劇作家に手紙を書いたのでした。
山崎哲氏に、「戦後」とは逡巡することにほかならないのだと、「戦後」を持たないアメリカを規範とし、やみくもに追従することで、私たちが失ってしまった言語に対するある種の感性、それへの郷愁をぶつけました。
そして山内ケンジ氏には、比喩的に歴史観のようなものを戯画化しました。
つまり、かの戦争は上から押し付けられたものではなく、市井に生きるひとりひとりの下支えがあって、はじめて可能になるのだということです。それが今また反復されようとしている。そんな状況下へのいらだちを書き連ねました。

ところが、ある日のことです。いつからか機能不全になっていた私の耳に、その声は、というかその音は、唐突に、思いもかけずに飛び込んできました。
明らかに身体に障害をかかえこんでしまった、その吃音のようなことばのかたまりは、ぼつりぼつりと、やや曲がった口の端から漏れでてきました。それは普段めったに観ることのない、テレビ受像機からでてきたのです。

辺見庸と大道寺将司。

今年四月に出版された、死刑囚大道寺将司の全句集「棺一基」。
その上梓に尽力した作家、辺見庸を追ったドキュメンタリーをNHKが放映したのです。そこから漏れ出てくる音を聴いた瞬間から、一分一秒たりとも辺見のことば、大道寺の句が私の頭に焼き付き、離れなくなってしまったのです。
私はその映像と音に釘付けになりました。
これほど真剣にテレビと向き合ったことが、さかのぼって一体いつのことだったのか、まったく定かではありません。そのなかで、辺見庸の発することばのひとつひとつに、紹介される大道寺の一句一句に、私の身体はどうしようもなく、ただただ震えるしかなかったのです。

ことばに震える。その意味と音に震える。
かつて私が文学に強い憧憬と志をもったのは、青春期に、この体験を得たからにほかなりません。長い空白の時間を経て、いままた、私のなかに「滾る」ものが流れるのを禁じ得ません。


大道寺将司はこう詠んでいます。

『時として思ひの滾る寒茜』

私は、辺見庸のことば、そして大道寺将司の句にとり憑かれたのだといっても過言ではないのです。
以来、むさぼるように辺見の本をあさりました。辺見のことばに全霊を注ぎ込みました。大道寺の句に、数えきれないほどの線を引きました。「棺一基」は、たちまち手垢と傍線でよれよれになりました。

辺見の本があれば、大道寺の俳句があれば、さらに、古井由吉の小説があれば、私ごときがなにか「書く」ことなど、まったく不必要だと痛切に思っています。しかしこんな私にも「滾る」ものがあるのです。
「滾る」ものこそが、生きて、そしてここにある証しにほかならないのです。

2、「にびいろ」

目覚めるとその夢の記憶がはっきりと脳裏に残っていました。
なにか金色に光るものを、私はふところに持っていて、どうやら偉い人からいただいたか、あずかったかしたようなのです。それはどこか適切な、しかるべき場所に移されるものだと、私は考えています。
どこに持っていけばいいのかを訊ねると、その必要はないという答えがかえってきました。それをたいへん不可解なことに思い、それは私のもとに置いておくということなのかと、また訊ねると、そうだというのです。
それ自体がなんであるのか、実のところまったくわからないのですが、漠然と金色に光るたいへん高貴なもので、夢のなかの私は、とても自分のようなものにふさわしくないと感じていながら、同時にこの上ない愛おしい感情がわき起こるのを禁じ得ませんでした。
目が覚めて、普段あまり夢を見ないものですから、その余韻を楽しんでいました。たんなる夢にすぎませんが、やはりなんとなくうれしい気持ちがしたのです。

起きてしばらくしてから、突然、あるひとつのことばが私に襲いかかってきました。
「にびいろ」
まったく不意に、そのことばは私の内側からわき起こってきました。一体どうして、このことばがでてきたのか、まったく判然としないまま、きっとつい最近読んだ本の一節にまじっていたのだろうと、自分自身にいいきかせました。

昼になり、夕方になっても、そのことば「にびいろ」は、私の頭に浮かんでは、なにかを訴えかけるのです。そうこうするうちに「にびいろ」ということばの意味を考えるようになりました。
「いろ」とつくからには「色」なのだろうと、漠然と考えた瞬間、明け方にみた夢を思い出しました。

身勝手に関連づけながら「にびいろ」とは、黄金色のことにちがいないと、ひとり合点したのです。合点したというよりは、どうにか理由をつけて、浮かんでは消える「にびいろ」という音に決着をつけたかったのです。
果たしてそんなことば自体が存在するのか、それすら怪しい。私のまよいごと、作りごとなのだと思っていました。

夜になって、一息ついたところで、また「にびいろ」がやってきました。そこで到頭、目の前のパソコンで調べてみようと思い立ちました。すると、あろうはずもないと思っていた「にびいろ」は、ちゃんとありました。
にびいろは「鈍色」とかいて、「染め色の名。濃いねずみ色。昔、喪服に用いた。」とあります。「にびいろ」は、黄金色だという、私の勝手な思い込みとはまったくちがった色のことでした。
濃いねずみ色だというのは、いいのですが、そのあとの「喪服に用いた」というくだりが気になりました。なにか不吉な予兆を思い、親しく大切に思っているひとたちの顔を思い浮かべ、その安否を心配し、用もないのに電話したりしました。

その二日後です。
私は前に買っておいた辺見庸の本「たんば色の覚書」を読み出しました。するとそのことばは、思いもよらないかたちであらわれたのです。

「面会所受付に行くには、どうしてもこのぶっきらぼうな鈍色の陸橋をわたらなくてはならない。以前はここには陸橋などなかったと思うのだが。一度深呼吸して意を決し、よろけながら階段をのぼる。」

『側』と題されたその文章は、こうしてはじまるのです。脳出血で右半身を麻痺してしまっている辺見は、途中でその右脚を攣らせながら、二十六段の「鈍色」の陸橋の階段をのぼるのです。そしてのぼりきったその先には、辺見が面会を求める確定死刑囚が、日々、朝を恐れながら暮らしている東京拘置所がそびえています。
辺見はその建物をこう表現しています。

「こぎれいな建物の形にどうにも割りきれぬ思いがして、なぜそうなのか考えてみたが、よくわからない。ただ、その建築物はいかにも書き割りみたいに嘘くさく、どこか油断ならない感じがした。」

辺見はかつて「観照の場」として東京拘置所の周辺を彷徨いました。

そして二千十二年の今も、確定死刑囚二名を友人に持つ辺見にとって、東京拘置所は変わらず「観照の場」にほかならないのでしょう。

「にびいろ」に導かれて、私もまた、その鈍色の陸橋をのぼってみたいという強い衝動にかられています。
のぼったその先に見える風景を心にとどめたいと思うのです。そびえたつ建物の内部には、確定死刑囚をはじめとした罪人と、つぐなうことのままならない罪のかたまりがやるせなく渦巻いているだけなのでしょうか。
おそらくそれだけではないでしょう。塀の「こちら側」に安穏と暮らす私たちが、否応もなく抱え込んでしまったさまざまな問題に、光をとどける「観照」があるにちがいないと思うのです。

3、「ミミズ」

緑地遊歩道と名付けられたその小径には、かつて線路と砂利が敷きつめられていました。
いまはその真下を、半分地下鉄になった電車が走っています。日差しが強くなれば、照り返しが厳しいくらいの白い道で、両脇には街路樹と植え込みが鮮やかな緑になります。間隔を置いて、ボランティアのかたが、いろいろと工夫を凝らした花壇もあって、駅へと向かう道筋を楽しいものにしてくれているのです。

昨晩はフレデリック・ワイズマンの新作「クレージーホース」を観て、上機嫌にお酒も飲んだこともあって、終電近くの電車で駅におりたちました。
少しよたよたと緑地遊歩道を通り、おぼつかない足下に目をやると、いつになくあることに気がつきました。黒く短い毛糸のようなものがあちこちに落ちているのです。よくよく見るとそれはたくさんのミミズではありませんか。
生きてうごうごとしているものばかりでなく、家路を急ぐ足に踏まれ、つぶれて動かなくなったのもたくさんいました。まだ生きているもの、すでに踏まれてからびてしまったもの、それらのどちらも踏まずに進むのが難しいくらいの数です。

この道は、夜の柔らかい街灯の光に照らされると、両側の植え込みはしっとりと暗がり、その真ん中に、ただ浮かぶように白い一本の道になるのだとあらためて感じました。その白い道にたくさんの黒いミミズが、いったい何のためにでてきたのかと訝るほどに、小さな頭をもたげて、その存在をひっそりと訴えているのです。
遊歩道の両脇には、それこそ申し訳程度の土があります。白い道は砂利を模したコンクリートです。ミミズたちは、植え込みの、もぐろうにももぐることができない土のなかからでてきたのでしょうか。
直下を走る地下鉄の轟音に耐えかねて、行き止まりの土から引き返して、少しでもいい場所をもとめて、白い歩道に飛び出してきたのかもしれません。
そしてその多くはスマートフォンを操作する足に踏まれ、真下での悲鳴に気づくことのない靴に踏まれて、からびていくのです。

『空つかむごとからびたる油蝉』(大道寺将司)

ことばを大きく、やや乱暴にですが、ふたつにわけてみたいと思います。
ひとつは芸術のことばです。それを詩のことばといっていいでしょう。「詩」自体が「ことば」を意味することもあるので、なんだか変な感じもしますが、わかりやすくそう呼ばせてください。
ご存知のように、詩のことばは、歴史と文化をその礎に持った普遍的な言語表現です。たとえばここに一幅の絵画があって、それについてなにがしかを語ろうとするとき、私たちは詩のことばをもちいようとするのです。

それに加えてもうひとつのことばは、資本のことばです。
わかりやすくお金のことばと呼ばせてください。これはある価値観、はっきりと経済という価値観に特化し、それに基づいた言語表現です。
お金のことばは普遍性とはかけはなれたことばで、経済という非常にオルタナティブな実体=生き物を中心とした可変的な言語です。

まずはっきりとことわっておきますが、私はこのふたつを決して対立項目とは思っていません。多分に混ざり合っている。現代に生きる私たちは、詩のことばとお金のことばをシームレスに行き来する言説空間にいるのだと思っています。たとえばさきの一幅の絵画を、その色彩について語ることもあれば、一体いくらで売れるのかと問いかけることもできるのです。
そしてその絵画の芸術的な素晴らしさと経済的な価値が、大きくずれないということもままあるのです。

広告の音を聴いてきて、もうずいぶんと経ちます。私はそれらをとてもおもしろいと思ってきました。しかしこの連載の最初にも書きましたが、いつのころからか、どうにも響いてこなくなったのです。
私が広告を、コマーシャルをおもしろいと感じていた部分は、一体何なのだろうと考えました。それはコマーシャルフィルムが、詩のことばとお金のことばが絶妙な均衡を保ちながら制作されていたという事実であろうといきあたりました。その均衡を保ちながら、表現を続けていくために企業や広告代理店、制作会社、そしてスタッフのひとりひとりが、その力を最大限に振り絞っていた。
私はそう断言していいと思っています。
少なくとも私はそう感じたし、それを意気に思っていました。経済原理に基づいた芸術表現とでもいいましょうか。もっと軽やかな、たいへんポップな表現形式の現出にかかわれることに、とても心がときめいていたのです。
しかしある時期から、いやそれは長い時間をかけて、その幸福ともいえる、ことばの均衡関係がくずれていったのです。

4、「ドームとカラマツ」

「その広さは、東京ドームななつ分です。」といった、そんな表現を聞くことがあります。東京ドームへは、野球観戦ではなく、仕事で二度ほどはいったことがあります。水道橋界隈も、車や歩きで通ることもあり、あの白く盛り上がった屋根を近くで見ることもあります。
ただ、どうしても私には、「東京ドームななつ分」の大きさや広さがわからないのです。おぼろげな勘と記憶をたよりに、ヘリウムガスのつまった白いドーム球場を思い浮かべ、それを二列に三つ並べ、さてもうひとつをどこにおいてみるか?はたまた四つのドームで四角形を作り、各辺に残りの三つをおいていこうか、などと考えてみるのですが、肝心の具体的な、実感としての「東京ドームななつ分」の内実がつかめないのです。
それほど厳密に考えず、「とても大きい」とか「すごく広い」ということだと納得したとしても、ただそういわれるときよりも、一見わかりやすく聞こえる「東京ドームななつ分」が、実際の土地の質感やイメージを覆い隠してしまっていやしないだろうかと、そんなふうに思うのです。

前回少しふれた資本のことば=お金のことばとは、「高い」とか「安い」とか「お得だ」といった、直接お金にかかわることばをいうのではなく、たとえば「東京ドームななつ分」といった表現にみられる言説の、ひとつのありようを指しています。それは換言すれば、「個」性を排することばといってもいいでしょう。

石巻市出身の作家辺見庸は大道寺将司の句集「棺一基」の序文「奇しき生」と題された文章のなか、変わり果てた故郷で目の当たりにした光景をこう書いています。

『海原はすっかり凪いでいた。なにかが仄かに匂っている。屍だろうか。胸がさわぎ、記憶の古層が揺らめいた。カラマツであった。暗褐色の堅い樹皮の裂け目から、カラマツの芯がそれとなく匂いをたちのぼらせているのだった。その匂いに覚えがあった。わたしは半世紀前、まだ少年だったころにもここで、同じカラマツの樹の精を吸ったことがある。そしていま、ここに生きてあり、同じカラマツの精を嗅いでいたのだった。後頭部に痺れのような熱い感覚が走った。』

辺見は「個」性について考えます。
『そのひとがそのひとであることは、なによって証されるのであろうか。』という、とらえようによってはクリシェになりかねない問いかけに対して、『すべてはこのあまりに原初的な問いとそれにいっかな答えることのできない苦しみからはじまる。』のだと切り返しています。

「個」性とはなにか。
それはたとえていうなら、あの大津波を経てなおカラマツの樹皮の下から発せられる匂いのようなものではないでしょうか。カラマツの匂いはみな同じなはずなのに、嗅ぐこちら側の意思と記憶によって、他とは決して一緒にならない、「東京ドームななつ分」などといったチープな一般化を許さない「なにか」こそが「個」性にほかなりません。

大震災と原発事故がありました。
私たちは、この絶望的ともいえる事態と大きな価値観の転機のはざまに立っています。そして辺見庸は、もしそこにほんのかすかな希望があるとするなら、それはまだ生まれていない、苦しみとともに身体の奥底からやってくる「未生のことば」にしかないのだと訴えかけているのです

「未生のことば」といは、いいかえれば「個」のことばであり、「詩」のことばなのだと思います。

『わたしはそれとなく待っていたのだ。いまもそれとなく待っているのかもしれない。世界のすべての、ほんとうの終わりを。目路のかぎり渺々とした無のはたてに立ってはじめて、新しい言葉ー希望はほの見えてくるだろう。』
(辺見庸「世界の終わりと新しい言葉」)

5、「削除された死体」

「東京ドームななつ分」と言い放つアナウンサーと、原稿を書いたひと自身は、そう説明することで、その広さとディテールを、充分納得のいく具体的な像としてつかんでいるのでしょうか。いや、おそらくつかんでいないでしょう。

そこにあるのは数値だけです。その土地の広さが何万平方メートルだから、ひとつの尺度、すなわち「東京ドームの広さ」で割ったにすぎません。一体だれが、いつから、「東京ドーム」を一般的な尺度の単位にしたのでしょうか。
私にはこのようにわからないことがたくさんあります。それはいつの間にか、あたかもずっと前からあたりまえのようにあったかのようにあるのです。それが数値の恐ろしさ、お金のことばの怖いところです。発話する当人さえ判然としないものが、あたかも当為の顔つきでひとり歩きしだすのです。

それは気がついたら誰もそのことに疑問を持たないような周到さで浸透してきます。ディズニーランドやAKB48をめぐる情報が実に巧みに、まるでサブリミナルのように、ワイドショーやニュース番組のなかで紹介されます。一私企業や一芸能人が、選別されて特別扱いで、日々たえまなく広告される。だれが、どういう意図でそうするのでしょうか。
私にはわかりません。しかしそこにはひとびとの潜在的な意識にわけいった資本の力が働いていることはおぼろげに感じるのです。

資本のことば=お金のことばは、「個」性を排するとともに、徹底的に数値のことばでもあります。テレビなどのマスメディアは、一方的にこの数値のことばを、なんの内省もないままに、ただただ垂れ流します。
さきの大津波のおり、テレビは一体なにをくりかえしていたかを思い出してください。
「この津波による死者は、今日現在一万五千八百四十一人、行方不明者三千四百九十三人です。」
私にはこのことばが指し示すものが、「東京ドームななつ分」と同じくらい判然としないのです。「死者一万五千八百四十一人、行方不明者三千四百九十三人」と連呼される、この情報とよばれる数値の奥になにがみえてくるのかが問われないのであれば、私にとってそれはまったく意味のない数字でしかありません。あの時の一連の報道では、「個」がまったくイメージできなかった。そう感じたのは私だけではないでしょう。

おそらく波がひいた後、海沿いの街では、死体を見ることなく歩くのは実に困難だったのではないでしょうか。テレビでは幾度となく、これでもかとばかり大津波の映像が流れ、新聞も瓦礫の山と惨状を報道しました。しかしそこには一体の死体もないのです。うちあげられた死体は、くだけた肉片は、あたかも都合のわるいものとして、周到に「削除」されていました。

コマーシャル撮影でロケーションなどしていると、都合がわるいもの、たとえば、素晴らしい景観を横切る黒々とした電線だとか、競合他社の広告や自動販売機がたまさか画面のなかにはいってしまうと、よくこんなやりとりがキャメラ脇で、ぼそりぼそりと、とりかわされます。
「どうする?」
「あとで消しておきます。」

ポストプロダクションにおける技術革新は、そこにあるものを簡単に消したり、反対にないものを合成して、あたかもそこにあるかのように現前させることを可能にしました。大震災をあつかった報道写真や映像をめぐって、ひょっとするとそんな傍若無人な振る舞いがあったのかもしれないと訝ったりします。
「まいったな。いい写真なんだけど、死体が写っちゃってるよ。」
「じゃ、消しときましょうか。」
おそらくそんな会話がかわされることは、一度たりともなかったと信じています。しかしそんなことを連想させてしまうほどに、私たちの感性は果てしなく鈍化しています。

『生きるとは、それじたいが現に証しなのではない。生きるとは、生きる主体が生きてあることをどうにかして証そうとすることである。』
(辺見庸「奇しき生について」)

生きてあることの証しをもとめて、日々懸命に格闘してきた「個」は、まったくはからずも大波にさらわれて死体となりました。
しかし死体は、かつて生きてあった尊厳の根をしっかりとはった「個」として、そこにあります。それはなんら「都合のわるい」ものでも「削除」されるべきものでもなければ、なんの内省もなしに、簡単に数値として還元できるはずのものでもないのです。

6、「香盤表」

「東京ドームななつ分」をイメージすると、どうしてもそれは自分の目の高さからではなく、上空はるかから見下ろすような、鳥瞰する視座になってしまいます。おそらく「今日現在死者一万五千八百四十一人」というときの視座と、さほどちがわないでしょう。
かならずしも「上から見下ろす」視座が悪いといっているのではありません。
ことばを発するうえで、ひとはさまざまな視座にたつものです。低く、高く、近く、遠く、大きく、小さくと、ひとは時と場合によってそれらの視座を使い分け、自らの位置を措定しながら発話しているのです。
ただ、発せられたことばは、時を同じくして発話者の措定した位置をはからずも露呈してしまうのだということに、もう少し敏感であってもよいのではないかと思うのです。

たとえばオリンピックで競技を終えた選手がインタビューに答えてこういったとします。
「メダルをとれなくて、国民に申し訳ない気持ちでいっぱいです。」
あるいはこういう選手もいたりします。
「勝った瞬間、これまで応援してくれた方々の顔がうかびました。」
あきらかにこのふたりの視座はことなります。鳥瞰する視座と水平の視座とでもいったらいいのでしょうか。

私は政治家が、あるいはスポーツ選手や歌手が「国民」ということばを使うのに、なにより怖気たちます。為政者としての自負や、多くのひとの期待と人気を背負わされた自覚が、その視座から発話することをよしとしているのか、はたまた教養や教育が足らないのか。いずれことばを発すると同時に露呈された視座というものは、そのひととなりのなにがしかを表していることは間違いありません。

私は企業や商品のコマーシャル撮影とその仕上げ作業に録音ミキサーとして関わって仕事をしています。そういった日常のなかで、よく目にするものに「香盤表」と呼ばれる書類があります。撮影の仕事をしているひとはよくご存知でしょうが、そうでなければなかなか耳慣れないことばだと思います。
「香盤表」は撮影における行動予定表のことで、何時にスタジオにはいって、このカットは何時からどれくらいで撮るのだとか、お昼ごはんはどのタイミングでとるかといったことが書かれています。
ほんとうにいろいろなパートのひとがそれぞれの思惑と技量でのぞむ撮影という仕事において、コンテとともにみなが共有することのできる数少ない書類、それが「香盤表」なのです。

おおよその目安となる、一日の作業のタイムテーブルにはもちろん終了予定時刻も書かれています。いつのころからでしょうか、その終了予定時刻のあとに、「みなさま、たいへんおつかれさまでした!」という文言が加わるようになりました。
一見やさしいねぎらいと感謝のようにも聞こえるこの一文に、さきの「国民」のような不快さを感じるのは、やはりその視座に関係しているからなのでしょう。

その一文が加わる以前、単に「二十三時終了予定。」とだけあったころは、香盤表を書く製作陣とスタッフやキャストが、同じ地平といいますか、同じ目の高さを持っていたように思うのです。
ところが「みなさま、たいへんおつかれさまでした!」と発する視座は、まだはじまってもいない撮影という大きな共同作業に対して、想定内のものとしてシュミレーションし、自己完結してみせる鳥瞰的な視座にほかなりません。そんな鳥瞰的な視座で香盤表を書くのが、この道に精通した大ベテランなどではなく、へたすると制作会社に入社して二、三年の経験が浅いひとだったりするという実態があります。
だから「みなさま」がだれのことをさすのかもわからないだけでなく、「おつかれさまでした!」とびっくりマークをつけられても、どうにも響きようがないのです。
今となってはフォーマット化され、見慣れたこの一文は、いつからつくようになったのかと、もう一度問うてみたとしても、むなしいばかりです。それは「いつのまにか、あたかも以前からそうであったかのような顔をしてそこにある」のですから。

そうして雪崩のような横滑りがはじまっていきました。
香盤表には、やはりいつからか広告代理店名とクライアント名のあとに「様」がつき、出演タレントや商品名は黒塗りの伏せ字になりました。赤文字で機密保持と誓約を強いる文章、そして返却を督促するナンバリングまでふられています。さまざまなパートが共有できる数少ない書類であった「香盤表」は、あたかも戦前を彷彿とさせるような、こんなにもグロテスクなものにかわってしまいました。これも「みなさま、たいへんおつかれさまでした!」と同様、いつかはどうということもなくなる日がくるのでしょう。
感性の鈍化とはかくもおそろしいものだと思います。

7、「決壊する倫理」

『わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
 百年かけて
 海とその影から掬え
 砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
 水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
 石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
 夜ふけの浜辺にあおむいて
 わたしの死者よ
 どうかひとりでうたえ
 浜菊はまだ咲くな
 畔唐菜はまだ悼むな
 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけのふさわしいことばが
 あてがわれるまで』
(辺見庸「死者にことばをあてがえ」)

私たちの狭い世界の「香盤表」などは、ひょっとしたらまだいいほうなのでしょう。この社会はいつの間にか、資本という肥大化したマトリックスが発するお金のことばによって埋め尽くされてしまったのかもしれません。
詩のことばとお金のことばの、それまでうまく折り合っていたバランスがくずれてしまったことで、広告作りという現場に少なからぬ混乱を引き起こしたのではないかと、この連載の最初に指摘しました。
ちょうど二年前、このブログで議論した「ぼくらにとって『真のお客様』とは誰か?」でも、このふたつのことばの不均衡とそこに起因するコミュニケーションの齟齬を書いたつもりです。
「香盤表」が「みなさま、おつかれさまでした!」の一言を合図に、グロテスクなまでに変貌していったように、ものを制作する現場は、資本のことば=お金のことばによって浸食されていったのだと、そういいたかったのです。

資本は「類化」し、「統べる」のです。なぜなら大切なのは、資本それ自身であり、それゆえに効率性と合理性は、欠かすことのできない必須の要件であるからです。資本というマトリックスを代弁するお金のことばが、私の身のまわりでも、まことしやかにとりかわされるようになって、もうずいぶんと経ったように思います。
私は漠然と小泉政権の頃を思い浮かべています。その当時、市場主義経済とインターネット、あるいはパーソナルコンピューティングの発展を背景にして、ことばのありようが日々変わっていくさまを肌で感じていました。そしてあるとき、なにかがガッと音をたてて決壊しました。倫理や歴史さらに仁や愛といった、それまで堤防のような役割を果たしていた価値観がくずれおちたのです。

堀江貴文さんとライブドアという会社が起こした、一連の蛮行ともいえるたち振舞いには、「倫理」はありませんでした。「倫理」ではなく、あるのは「資本」です。だから堀江さんが発することばはいつもお金のことばでした。鳥瞰し、類化し、他を統べることを第一としていたのではないでしょうか。
堀江さんは、世界を鳥瞰し、そこで起こるさまざまなことを「想定内」であるといってはばかりませんでした。それは自らをスーパーコンピュータや資本そのものと同一化し、自身をマトリックスだと公言することにほかなりません。そこまで徹底したからこそ、堀江さんは「資本」のスターになったのでしょう。そして資本におもねっていたテレビなどのマスコミにとってもスターだったのです。

最初に「想定内」ということばを聞いたとき、私は正直なところ、気持ちが悪くなりました。発話者も私もふくめ、すべてのひとの「個」が失われているように感じたからです。私には、お金のことばが詩のことばを恫喝し、人々からことばを奪っているようにしか見えなかったのです。

8、「平たい闇」

二千十二年八月二十日。
ダマスカスに生きる十六歳の少女は、たった今、なにを感じているのでしょうか。
三十八度線を警備する北朝鮮の二十三歳の兵士は、たった今、なにを見ているのでしょうか。
カブールの郊外でもうすぐ七十六歳になる老人は、たった今、なにを食べているのでしょうか。
ガザ地区で三人のこどもを育てている四十歳の母親は、たった今、こどもたちの将来を気に病んでいるのでしょうか。
バクダット中心街のひとであふれた市場に野菜と肉を買いにいくのは、とても勇気がいることなのでしょうか。
信仰が深ければ、なんの躊躇もなしに、身体に爆弾を巻き付けることができるのでしょうか。
ウサーマ・ビン・ラーディンが、あんな殺されかたをして、私はうれしいのでしょうか。
ほんとうに「国民の生活が第一」なのでしょうか。
今日も内戦が激しくなるシリアの映像を見ました。
重機関銃を撃つ民兵の姿の、すぐあとに花柄のワンピースを着た女の子がこちらに手を振っていました。その可愛いワンピースは血で染ってしまうのでしょうか。
そんなひとつひとつを想像することのできない、ただただ想ってみることしかできない私は、それでも平和で幸せなのでしょうか。

世界は広大で多様で、いまこの瞬間も、ひとは実にさまざまな環境のなかで生き続けています。それは自然環境だけでなく、その地の経済状況や国家が選択したイデオロギーや政策、そして宗教といったものも、ひとりひとりの暮らしに大きな影響を与えます。
戦争や紛争、そしてその火種は、あちこちの地域にあります。
ほんとうに幸いなことに、私はいま戦争下にも内戦下にもいません。ただ、以前書いた「形而上、あるいは追悼文」という文章で、私はこう書き出しています。

『精神的な病におちいるものが後をたたず、おびただしい数の自殺者を生み出す状況というのは、もはや戦争状態に等しいといえるのではなかろうか。
鉛の弾や、大型爆弾や、地雷によらずとも、これだけの戦果、すなわち痛んだ心と屍の山を築く、「敵」あるいは「武器」とはいったい何だろうか。
かたわらで膝を折る盟友や同胞の姿をながめながらも、なおその歩を前へと進めなければならないというのか。
憤りにも似た感情とともに、私は私にそう問いかける。』

小泉内閣が押し進め、堀江貴文がトリックスターとして演じてみせてくれた二十一世紀の「資本の時代」は、同時に「詩」のことば、「個」のことばを見失っていく時代だったのではないかと思うのです。
アメリカ型資本主義とプラグマティズムが席巻し、市場経済の論理とコンピューティング、そしてマスメディアの喧伝の横溢のなか、「負け組」に振り分けられてしまったひと、弱者ゆえにことばを奪われてしまったひとが、実は非常にたくさんいたのではないでしょうか。
私はそのときまっさきに思ったのが、「人間=生き物」という考えでした。ことばをなくしたひとは「生き物」として、その環境によく耐えうるのだろうか、大丈夫なのだろうかと考えました。大げさにいえばその存在自体が危うくなるのではないかと思ったのです。

そう考えるきっかけになったのが、二千八年の三月に土浦で、そして同じ年の六月に秋葉原で起きた、無差別殺傷事件でありました。
その翌年、秋葉原の事件を「アキバ飛べ」として劇化し上演した新・転位21の山崎哲氏に、感想という体裁で私信を送りました。それはそのまま新・転位21のホームページにアップされたので、ここでは転載となりますが、抜粋して引用したいと思います。

『ぼくはいま昼下がりのプールにいて、休憩あけの、まだ誰も入っていない水面に足の先をつけたところです。沈めていった膝のあたりから小さな波紋がゆるやかに広がります。この小さな波紋は胸までつかり、やがて頭を沈めるころにはより大きなものとなるでしょう。
ぼくの後ろには次々とはいってくる人たちがいて、その人たちがおこす無方向な波が、眼の前のうっすらとした波を打ち消していくのがはっきりわかります。
そして静かだった水面はやがて混沌へと姿をかえていくのです。(中略)
秋葉原の事件を最初に耳にしたとき、とっさにぼくは「プロ」を思い浮かべました。
戦闘のプロ。
短時間にこれだけの人を殺傷できる能力と技術にたけたプロの姿です。これは戦争とかテロとかから最も遠い安寧とした場所で起きた「戦争」なのだと直観しました。しかしその「戦争」をしかけたのは、「プロ」と呼ぶにはおよそ似つかわしくない青白い青年でした。

はたから見る外見とは無関係に、少なくとも彼にとっては間違いなく屈強の意思をもった「戦争」であったと思います。

では何に対しての「戦争」だったのでしょうか。
その大義は闇のなかにあります。またしても手さぐりで何かを容易に探しあてることなどできない闇です。ただ注視しなければならないのは、それが深い闇ではないということだと思います。
深いというのは一方向です。この闇は、あたかも十分間の休憩で、すっと張られた水面を、監視員の笛とともに、まったく何のつながりもない沢山に人たちによってひき起こされる波紋のように、無方向に、どこまでも広がっていく「平たい闇」ではないでしょうか。(中略)
「リゾーム=根茎」のように拡散する「平たい闇」こそは、共同体の存在を前提としたパラダイムから切り離されたコスモポリタンの迷い子たちのうえに、不断に降りそそいできた五月雨にほかならないのだと思うのです。(中略)
土浦で起きた事件と秋葉原の事件は、似てはいながらも、決して同一の闇から生まれたものではありません。百人いたら百の闇があるように、ポストモダニズムの広野に、なんの規範もなく放たれた「個」は、それぞれに、無関係に闇を育んできました。あたかも真の犯人探しを拒絶するかのように、均一に見える表情を横へ横へと広げてきたのです。(後略)』

9、「悲鳴をあげる生体」

「平たい闇」という表現で、私が山崎さんにいいたかったのは、ある種の危機感でありました。それは、私たちの話す戦後的な言説の空間とこの無差別殺傷事件は、まったく没交渉な異空間にあるのではないかという危惧です。すなわち私たちのことばは、もうとどかないのではないかということです。
八十年代に転位・21が、さまざまな社会的な事象や事件を、演劇という形で視覚化し、昇華した時代とは、目に見える以上に大きくかけ離れてしまったのではないだろうかと、漠然とではありますが、感じていました。そのことを山崎さんに伝えたかったのです。

そのころ、つまり私が学生だった八十年代には、まだ戦後的なことばのありよう、物語の肢体がはっきりしていて、人の内面という闇に、演じるものも観客も、降りていって、その縁に触れることができたように思うのです。しかしもはや「アキバ」には降りていく闇がない。なぜならそこは、象徴的に、ことばを奪われたひとの場所であり、かわりにあてがわれた「偽のことば」を変換したり、送ったり、送られたりするだけの、においのない生命体がさまよう場所にほかならなかったからです。

どうして加藤智大は、実際にトラックにひとがあたるときの大きな音と衝撃を感じて、我にかえらなかったのでしょうか。ひとの脇腹からずるりとはいっていくナイフの感触と、振り返ってこちらに見開いたまなこ、血の温かさを感じてもなお、自らを止めることができなかったのでしょうか。
それほどまでに加藤のなかの「私」=生き物は悲鳴をあげていたのでしょうか。それほどまでに「リア充」は「私」を追い込んでいったのでしょうか。起こした戦争は、考えていたままの戦争だったのだでしょうか。
加藤智大にたずねてみたいことはたくさんあります。
せめて、きみは応じるだけの「個」のことばを、その内側に持っているのか、それだけでも答えてほしいと、そう思わずにはいられません。

辺見庸は「しのびよる破局」のなか、「生体反応としての秋葉原事件」という章でこう記しています。
『ぼくはあの青年たち(注:土浦、秋葉原事件の容疑者)が使っていた日本語に非常に興味をもちました。そのなかでぼくがとくに衝撃を受けたことばがあります。秋葉原事件の青年が、携帯サイトの書きこみのなかで「リア充」ということばを使っている。(略)
かれはリア充というものを、まったくリア充ではない「虚」のところからいっている。つまり、かれは十分に自覚しているのです。自分が両足をおいている世界というのはリアルではないと。(略)
自分はまったく虚なる世界に住んでいて、リア充ではないのだと。この想いを、かれは十分に対象化しえていないけれども、ぼくはこのことばによって、事態の本質、その切り口みたいなものが見えた気がしました。』

さらに重要なのはそのあとに続く一節です。

『ところで、ぼくはおもうのです。かれだけでなく、リア充といわれて、リアルな生活部分で心身ともに充実している人間が、いま何人いるのだろうかと。ぼくもそうですが、たいていの人間がおおむね虚なる世界で生きているのではないでしょうか。必要な情報をネットで次から次へと検索していって、情報を追いかけ、情報に追いかけられる。自分の日常生活のかなり多くの時間がそこに占められているというのは、それでよかったのか。人間の生体としてそれは耐えうるのか。あるいは生体に合っているのか。』

ごく単純に思うのです。コンビニや外食チェーンの食事ばかりを食べていて、人間=生き物として大丈夫なのだろうかと。インターナットばかりしていて、生き物としての「私」は大丈夫なのだろうかと。メールばかりして、ゲームばかりして、携帯の画面ばかりをみていて、人間社会と「私」との折り合いは大丈夫なのだろうかと、そう思うのです。

私は、奪われたことばにかわって「偽のことば」があてがわれたのだと思っています。
「偽のことば」の大部分を資本のことば=お金のことばが占めると思っていただいて差し支えありません。それらはマスメディアやインターネットを通して、あたかも自分のことばであるかのようにして、刷り込まれた言語であります。
ある時、もうずいぶん前ですが、その日の話題や会話のたねは、スポーツ新聞からとられていると気づいたことがあります。得意気に自説を開陳するひとのことばは、その多くがその朝のスポーツ新聞に書かれていました。ひとは忘れっぽく、またずるいものです。その自説なるものが、借り物でしかないことすら忘れてしまいます。
ほとんどすべてが、あらかじめ用意された「鋳型=ステレオタイプ」でしかないのです。ようは何を選ぶかでしかない。そしてそれを自分のことばだと思い込もうと自らをしむけるだけなのです。
「了解。ありがとう。」は「り」と「あ」を打つだけで成立してしまう、メールの予測変換のように、私たちはことばの内在化と外在化、「個」のことばとお金のことばとの境界を見失ってしまったのではないでしょうか。
「ことばが奪われた」とはそういう状況を指しています。

10、「エロ話のゆくえ」

知り合いのAさんは、さほど大きくない地方都市で寿司店を営んでいました。この街も他の地方のまち同様、景気の悪化や人口減に悩まされていました。それに加えて、中心から少し離れた国道沿いに、次々と大手スーパー、家電や衣料の量販店、外食チェーンが並ぶようになりました。Aさんにとって一番の打撃は、そのあたりに回転寿司のチェーンが二店舗もできたことでした。
ひとびとの買い物のスタイルが、駅近くの商店街から、郊外に移り、外食するひとたちもまたそちらへとに移っていきました。

Aさんのお店は商店街のはしっこにある、こじんまりとしたお寿司やさんでした。自分で仕入れた魚をさばいて、煮たり焼いたり、刺身やお寿司にしてだしていました。気の置けないお客さんといろいろと話をしながら、ときにエロ話なんかしたりもする、ごく普通のお店でした。
先細っていたAさんのお店も、いよいよたちいかなくなって、二年前に閉めてしまいました。しばらくしてAさんは、国道沿いの回転寿司チェーンで働くようになりました。
そこでは仕入れも調理も接客も、すべてにおいて中央の管理下にあり、分厚いマニュアルを覚えなければなりませんでした。Aさんもホールにでて、注文のお寿司をにぎったりするのですが、エロ話はもちろん、無駄口は一切禁止されているのでした。
目の前のコンベアーをよそに、Aさんに「いかとはまち」をたのみながら、その姿をちらちらと見ていました。同じしぐさ、同じ仕事でありながら、なにかが決定的にちがっているように思いました。
奪われたもの、あるいは、失ってしまったものは、おそらくごくごく些細なことなのです。ちょっとした日々の裁量、培った経験や技量、そしてエロ話とか、そういったものです。

Aさんも、たくさんのひとからたのまれて寿司をにぎっているほうが、お客さんのいないお店で、ひとりテレビをみているよりも幸せなのかもしれません。なによりも生活し、家族を養っていかなければならないのですから、「個」としてのふるまいやことばにかわって、マニュアルという、資本のことばと論理をまとっていかなければならないとしても、それは無理のないことなのでしょう。

戦後日本の復興は、徹底して「個」を中心にやってきました。なんといってもあの戦争で、「国にだまされた」という意識が強く働いていて、国家をあてにしない体質ができていたように思います。いうなれば小売店と町工場と中小企業が、それぞれに切磋琢磨して、廃墟だった、疲弊した日本を興していったのです。
大きな成長期ののち、グローバル化と長く続くであろうゼロ成長期をひかえて、資本は、野方図なまでに拡散した「個」をたばねて管理し、「統べる」方向へと、ゆっくり舵をとっていきました。小売店が次々と姿を消し、大型店、量販店、チェーン店が、この国じゅうを覆っています。私の住んでいる街には、都内でも有名な大きな商店街があるのですが、そのほとんどがチェーン店です。飲食店、衣料、ドラッグストア、コンビニと、個人でやっているお店のほうが、もはや少なくなっているのかもしれません。気難しい店主がいた本屋さんもなくなりました。たたむ半年前に、店主と話していたら、
「毎日、本屋が五軒つぶれているんだよ。」
と教えてくれました。

お金が、アメーバのようにひろがった無数の細い糸を通って動く構造から、太く寡占化された幹線を通って、どこかわからないところに吸い上げられていくような構造へと、資本はゆるやかに、その場所をかえていきました。そのようななか、気がつくと、Aさんのように小さな城を追われ、小作人となってしまっているひとたちが後をたたなくなっています。
NEC、シャープ、東電、ソニーといった、戦後第一線で日本を牽引してきた会社ばかりでなく、多くの企業で、実に大幅な人員削減が行われています。千人単位のリストラ、レイオフの対象になったひとたちは、一体どこにいくのでしょうか。
人件費の削減で会社自体の業績はよくなるのでしょう。しかしそこをだされたひとたちの将来は、会社の将来ほどには透明ではありません。
かれらの多くが、資本が形成した現代のコルフォーズに囲い込まれ、農奴ならぬ、労奴となっていくのでしょうか。それとも加藤智大がそうであったように、非正規雇用という名の労働難民となっていくのでしょうか。

私が注目したいのは、なんどもいいますが、ことばの問題です。
たとえば、昔から会社員として働くものは、「個」を滅して会社のために働いてきたんだという反論があるとします。はじめから「個」のことばなどという悠長なものはなかったのだというひとがいるとします。しかしそういうひとも、二十年前、三十年前よりも、現在のほうが圧倒的に自身が管理されていると感じていることでしょう。目に見えるかたち、見えないかたちで「なにか」に圧迫されていると感じていることでしょう。
コンプライアンス、クレーム、ハラスメント、ほかにも会社や自分の将来といった、いろいろな要因が、自由なたち振る舞いにブレーキをかけているのではないでしょうか。

私たちの仕事の現場でも、さきに香盤表について例にとりましたが、いつの間にか機密文書化され、厳重な取り扱いを強いられます。私のような粗忽ものは、はなから自信がないので、受け取らないようにしています。
コーディネーターはロケ地の交渉をするときでさえ、相手に会社名も撮影する商品名もあかしてはならないのです。撮影時にはさまざまなクレームや法令遵守に対する幾重ものマイナーチェックがあり、コード=縛りがあります。

私はそんなありさまをどうこういいたいのではありません。一貫して、私たちが「そこ」で使うことばのバランスについて言及しているつもりです。
すなわち、資本にとって都合のいいことばばかりが横行し、それ以外を許さない土壌になっているのではないかと危惧しているだけなのです。

11、「絆」

さきに引用した「生体反応としての秋葉原事件」にもう一度もどってみたいと思います。

辺見はこう書いていました。

「たいていの人間がおおむね虚なる世界で生きているのではないでしょうか。必要な情報をネットで次から次へと検索していって、情報を追いかけ、情報に追いかけられる。自分の日常生活のかなり多くの時間がそこに占められているという
のは、それでよかったのか。人間の生体としてそれは耐えうるのか。あるいは生体に合っているのか。」

秋葉原事件を起こした加藤智大は、私たちとはかけはなれた場所にいたのではないということ、いいかえればだれもが秋葉原の事件を起こす可能性があったということに、もっと自覚的であってもいいように思います。
辺見が「虚」というとき、それはいわゆる「ヴァーチャル」ということだけでなく、文字のしめすとおり「虚しい」という意味を多分に含んでいます。
日常の生活において、「虚」の領域が多くしめればしめるほど、ひとは虚しくなっていくのではないのだろうかという問いを、生き物=生体としての立場、視点から投げかけているのです。

「リア充」ということばは、無意識ながらにリアル(実世界)を豊かなものとしてとらえています。そして自分がいる「虚」を抜け出すことのできない「アンダークラス」として自覚しています。
土浦、秋葉原の事件を、ある種の自殺行為としてとらえる見方もあります。人知れずだまって中央線に飛び込むよりも、なにがしかを残して死刑にしてもらうという自殺行為です。
私たちは知っています、一年間に二万人をこえるひとたちが「だまって」自殺していることを。自殺を試みたり、思ったりしているひとの数はその何倍もいることでしょう。
さらに、ほんとうに信じられない数のひとが、うつ病に代表される精神的な疾患をかかえながら日々暮らしているのです。ということは加藤がうらやんだリアルはもはや充実したものなどではなく、虚しいものになっているということではないでしょうか。
加藤が殺し、傷つけたひとたちは決して「リア充」なひとたちではなく、虚しい社会に、自分と同じようになんとかして生きている同志なのだと、もし、気がつく気持ちの余裕があったならば、あの事件は起こらなかったのではないかと思うのです。資本は効率性と合理性を追求するあまり、ことばとともに「気持ちの余裕」も奪っていったのです。
私はあの事件を人間という生き物が耐えきれずあげた大きな「悲鳴」なのだという辺見の見方に強い共感を持っています。

生き物=生体としての人間は、どこまで「虚」や「虚しい」ものに耐えられるのでしょうか。それを楽しみ、有用なものとして活用しているひとは、さほど多くはないように思います。
芸術や詩にふれ、さまざまな関係性のなかから、ことばと格闘し、もんどりをうちながら、自らのことばを獲得していく、そんな土壌はもはや昔日のこととなりつつあります。
手軽に検索し、コピペすることで用意に得た情報は、格闘も逡巡もないままに、その濃度の薄さから、大量でありながら、「個」のことばとして定着していかない。それゆえに「虚しさ」は満たされないのです。

「虚しさ」に耐えられないひとたちは、やはりなにかでそれを埋めたいと考えます。特に昨年の大震災と原発事故のような、ひとびとの足もとを震撼させる大きな出来事があったときには、なおさらです。
そして三月十一日以降に、辺見をはじめ多くのひとが気づいたのが、私たちは「それ」を語る「個」のことばを、もはや持っていないのだという衝撃的な事実でした。
いつの間にか置き忘れてしまった「個」のことばにかわって、「虚しい」私たちに、資本や体制やマスコミが穴埋めにとあてがったことばが、たとえば「絆」だとか「国難」といった太平洋戦争以前の煽動の文言だったのです。

思い起こしてください。三月十一日以前に、普段の生活のなかで、私たちは「絆」などということばを使っていましたか。
少なくとも私は使っていませんでした。私のまわりにいるひとたちも使っていませんでした。しかしあの日をさかいに「絆」はあふれ、あたかも「以前からあたりまえのように、そこにあったかのように」ひとびとのことばになっていきました。
注意してください。「絆」は私たちのなかから「個」のことばとして発露したものではなく、何者かによってあてがわれたものなのです。
「国民一丸となって国難に立ち向かえ」と刷り込まれたのです。それがなにやら昨今かしましい「領土問題」と地続きになっているということにも敏感になっていたいと思います。

12、「ことばの質量」

日曜日の午後、六本木界隈の道路は渋滞していました。私は車にいて、赤く光ったストップランプの列の遠くから、拡声器を通した怒号のような音を聞いていました。
しばらくすると反対車線のむこうに、のぼり旗のようなものも見えてきました。
大使館の多い六本木ではめずらしくない右翼街宣車だとするのはどうやら思い違いで、なにがしかのデモ行進が、この渋滞の原因なのだと合点しました。

しかしそれは、私が知っているデモ行進とは、少し、いや大きく違っていました。
声をあげ、通りを練り歩くみなが掲げているのは、それぞれの主張を書いたのぼりやプラカードではなく、日の丸の旗、すなわち日本の国旗でありました。
おびただしい数の「日の丸」をかかげた行進は、とても異様なものに映りました。少なくとも私には、それは「異様」でした。

老若男女を問わず、林立する日の丸とともに「売国外交」を叫ぶその姿に、私はわけもなく途方にくれていました。
流されていく、流れていく。
もはや「個」のことばなどといっている自分は、なにやら儚い、おぼろげな影でしかないようです。
おそらく私は、その「日の丸」が「反原発」に変わったとしても、同じような感覚を抱くのだと思います。

かつてジャーナリズムに身を置いていた作家、辺見庸はこう記しています。

『ジャンケンのまえに、やつれたおんなは言った。よく熟れた赤い秋茱萸を食べながら。「あたしは変わりたいのよ。すっかり変わりたいのよ。どうなふうにでもいいから、変えられたいのよ。」すべての舫いの糸は切れていた。舫いはもともとなかったのかもしれない。それにたいし、わたしは地虫みたいな
小声で言った。「おれは変わりたくない。これからはただの窩になりたいな。夜に張り出すのではなく、夜の窩に。」応ぜず、おんなが言い足した。「このままなにもしないわけにはいかないわ。なにかしなければ。行かなければ・・・」この期におよんで、みんなそう言うのだ。なにかしなければ。なにもしない
わけにはいかないから、なにかしよう、と。圧倒的正当性をおびた怪しい空洞。なにもしないわけにはいかないともあながちおもえないので、なにもしないわたしは、当面の不正義に区分される。』
(辺見庸「行方」)

「戦後」的な言説のある大きな部分を占めていたのは、左翼的、あるいはリベラル的と呼ばれる言論であったことは間違いないと思います。それらの中身がいったいどんなものであったかは、大いに批判されなければならないでしょうが、ここでひろいあげたいのは、「戦後」的な言説のある種の抑止力であります。
「戦後」的なものは、その礎に敗戦があります。
「戦後」的な言説空間は、戦争責任という大きな歴史的区分けをうやむやにしてしまった戦後の、ある意味、玉虫色のありようのなかにあってもなお、気をゆるめればすぐさま立ち上がろうとする戦争の亡霊たちを注視し、周到に閉じ込めておく力を持っていたといっていいと思います。

時間の経過と無批判によって「戦後」は遥か遠くなりました。
「戦後」がはらんでいた抑制の言説も、同じようにその力を失っていきました。
「戦後」が霞んでいくことで、左翼リベラルの、やや窮屈ともいえる言説の場から解放され、自由な「個」のことばによる闊達な議論がわき起こる土壌はできていたのです。
しかしそのせっかくのチャンスをさまたげたのが、資本のことばであり、マスメディアのことば、そして広告のことばだったのです。

武蔵小山パルム商店街がチェーン店で埋め尽くされたように、ほどほどに類化され、統べられることを、私たちひとりひとりが、ややマゾヒスティックに望んだのでしょうか。
それらは資本の、メディアの、そして広告の、一方的な都合でしかなかったようにも思えます。

一体だれが、なにが、ことばの質量を奪ったか。

薄っぺらなことばが考える薄っぺらな思考が、むやみやたらと、ところかまわず「発信」するのです。

「なにかしなければ。なにもしないわけにはいかないから、なにか
しよう、と。」

かくしてファシズムは、ゆっくりと形成されていくのです。

13、「ネオン」

前回の拙文にコメントをいただきました。そのなかの「小さくても健康な細胞が肥大しつつある悪性の細胞に飲み込まれるような・・」という一節に、ある曲の調べを思い浮かべていました。
それは六十年代なかば、若きポール・サイモンが書いて大ヒットした「サウンド・オブ・サイレンス」です。

そのなかで「静寂が、がん細胞のように広がっていることに、あなたたちは気がつかないのか」と問うくだりがでてきます。
これは「意味のない繰り言ばかりで、語ることのないひとびと。聞き流すばかりで、耳を傾けることのないひとびと。だれの心にも響かない音楽を作り続けているひとびと」へ投げかけられたことばであります。

私はこの歌が大好きで、今でもよく聴いているのですが、一緒に口ずさみながら、どうにも気にかかるものがあります。
それは歌詞のなかで二度ほどでてくる「ネオン」ということばなのです。
宗教的な様相と夜をイメージさせるモノトーン、暗喩や換喩といった抽象的なレトリックが散りばめられた歌詞のなかで、「ネオン」は一種独特な色彩を放っているように思ったのです。
「ネオン」は漆黒の闇を切り裂き、静寂の音に満ちた世界を露呈させる大切な役割をもって登場します。

ネオン管は発光します。しかしこの前後にでてくる光源、街灯や裸電球とは、まったく異なった光を帯びているようです。なぜならネオン管は光をもたらすことが目的なのではなく、なにかを伝えるために光っているのですから。

ネオン管はなにを伝えていたのでしょうか。ホテルやバーの名前でしょうか。それとも「コカコーラ」や「バドワイザー」といった商品の名前でしょうか。
いずれネオン管は非常に広告的な産物です。
「ネオン」は、消費社会、すなわち大量に生産し、大量に消費し、それでも蕩尽することができず、大量の無駄を生み出している社会への入り口にあるもの、たとえば象徴として「広告」と同義に使われているのではないかと思ったのです。
「広告」がその力を遺憾なく発揮し、多くのひとびとを大量の消費活動に導いていった時代は、数えきれないほどのネオン管がまぶしく照らし、夜から漆黒の闇を剥ぎ取っていったのでしょう。好景気の騒然としたかしましさと酔った笑い声とクラクションが響き、街はたくさんの音で埋め尽くされていたにちがいありません。

しかし若きポール・サイモンは、その喧噪こそ、無意味な喧噪であって、音のない世界、すなわち静寂となんら変わることがないと断じています。
歌詞の冒頭にでてくる「ダークネス」、暗闇とは、私たちが沈思し黙考する人間存在の内面の換喩にほかなりません。
この歌は、経済が成長し、消費社会が熟していけばいくほど、私たちは内面という名の闇を失ってしまい、かわって静寂が、がん細胞のように広がっていき、その音なき世界に支配されてしまうのだと、やや諦観を帯びたまなざしをもって警告しています。
かように「サウンド・オブ・サイレンス」とは、静寂の音、音のない世界の音という、ともすれば禅問答のような題名であって、そのきれいなメロディとハーモニーからかけ離れた、仕掛けに満ちたことばで書かれているのです。

音のない世界とは、やや乱暴にいえば、ことばが機能しない世界です。ことばの質量が極限まで薄まって、軽くなってしまい、音は発せられるが、それがなにを指し示すのかが、判然としなくなる状況です。
それはコミュニケーションの崩壊ばかりでなく、なにが大切なのかという根本的な、ひととしての価値観さえも失ってしまうことを意味しています。
ことばが果てしなく軽くなって均一になっていこうとしているという状況においては、六十年代以降のアメリカも、高度経済成長を経てきた日本もおおきく変わらないことでしょう。

いまでも美しいメロディをもったこの曲が歌われるのは、ポール・サイモンの予見があながち的外れではなかったということかと思います。
そして彼は、歌詞の最後にもう一度、「ネオン」を使っています。音のない世界に囲い込まれたひとびとが、もはやネオン管でできた神を、真の神さまとして祭りあげている様子が描かれ、ネオン管が神託を告げるくだりがでてきます。

「預言者のことばは地下鉄や安アパートの壁に書いてある。」

ネオン管の神さまがいっていることは、コピーライティングであって、真実ではない。あえていえばことば遊び。厳しくいえばデマゴーグでしかありません。
ポール・サイモンは、音のない世界、ことばや音楽がその質量を失った世界、軸となる価値観を見失った世界の行き着く先は、デマゴーグ=煽動に満ちた混沌とした状況であるといっているのだと思います。

それは、ゆっくりとファシズムが形成されつつある、私たちの「いま」に、どこか似ています。
その「いま」に導いた水先案内人である「ネオン」、すなわち広告のことばについて、もう少し考えてみたいと思います

14、「キリンナツバナ」

イランの映像作家アッバス・キアロスタミの新作「ライク・サムワン・イン・ラブ」で、交際相手の狂気と暴力におびえる女子学生に、年老いた元大学教授はこういってなだめていました。
「大丈夫、大丈夫。なるようになるよ。」
そしてケセラセラと歌いました。

のっぴきならない事態が、すぐそこまで迫っているときに、ひとはいったいどう処するのかと思います。抗い、戦うのか、逃げ出すのか、はたまたじっと身をかがめ災いが通り過ぎるのを待つのでしょうか。
「大丈夫、大丈夫。なるようになるよ。」というのは、ひとつの態度決定だと思います。それには「なるようになった」事態への強い覚悟と責任を持つということであるからです。
しかしそこに強い覚悟と責任がないのであれば、それは単なる態度保留になってしまいます。
さて、この元大学教授の態度は一体どちらだったのか。
明かされないまま、映画は唐突に終わります。

一見すると同じく見える「ケセラセラ」も実は、その内実によってはまったく相反するものになってしまいます。
いずれ流れていくのであっても、その流れ着いたさきを、いかなる意味においても肯定するという強い覚悟と、それを自身が選択したのだという責任を負っているのでなければ、それは態度決定とはならないでしょう。
こうしてみるとその多くで態度保留、あるいは棚上げをしたまま流れていった時間こそが「戦後」だったのかもしれません。
「戦争責任」を保留し、棚上げにして、アメリカに下駄をあずけたまま、やみくもにただ流れていった時間は過ぎ去り、私たちはいま、また新たなる態度決定を突きつけられているのかもしれません。

たとえば原発問題です。原子力発電は、戦後日本のエネルギー政策の重要な柱だったはずです。
それについて考える、あるいは態度を表明することはいつだってできたのです。しかし私たちは、原発への態度を保留し、棚上げしてきました。スリーマイルやチェルノブイリで甚大な事故があったときですら、原発存続の議論になりませんでした。
私たちは原発を押し進める政党に投票し、政策をゆだねてきたのです。ひとりひとりが「原発ケセラセラ」の態度をとり続けてきたことを、もう一度思い出してみてください。
そこには覚悟と自覚と責任があったでしょうか。そのことを踏まえてはじめて、また新たな態度決定をしなければなりません。

私の耳は大震災以前から、広告のことばへの私自身の思い違いと違和感に気がついていたはずなのです。それでも覚悟もなしに「大丈夫、大丈夫」と思い込もうとしていました。
メーカーが命がけで作り出した商品と懸命に対峙し、少ない文字数で最大限の効果を生み出すのが、広告のことばのおもしろさと醍醐味だと思っていましたし、実際そうなのだと、いまでも思っています。
しかし三月十一日は、広告のことばのもうひとつの側面をあらわにしました。
あの日をさかいにテレビを中心としたマスメディアが、一斉に報道統制をとりました。コマーシャルが自粛され、公共広告機構の映像にとってかわられました。その「よどみなきすみやかさ」に私は心底驚いたとともに、広告は一瞬にしてプロパガンダになるのだということに、はっきりと気がついたのです。

それほどに私はのんきで愚かだったのです。さきの原発でもそうですが、多くのひとがだまされたという「絶対安全」の信じ込みをさせたのは、そのシステムを作ったのは、資本や体制に寄り添った広告のことばだったのではないでしょうか。
広告のことばはもはやその多くが、自立したことばでも、普遍性に依拠したものでもありません。それは「ネオン」であって「ことば」ではないのです。
そのあたりの境界線があやふやなまま先送りされていることが、広告をプロパガンダに変容させる危険性をはらんでいます。

『資本と商品経済とデジタル革命が、しかし、すべてを統べ、人の意識を収奪し、脱臭し、漂白しつくし、不逞も異形も商品として売れるか売れないかのただのファッションとなりさがりつつある。』
(辺見庸「緋ぢりめんの不動明王」)

そんな現状に、広告のことばは深く関与し、その中心を担ってきたのだと思います。詩のことばは自立し、重層的で、動的で、多様に拡散します。ゆるやかなファシズムは、広告的なことばを真似ながら、一義的な表層を滑りながらやってきます。

「絆」はある政党のヘッドコピーです。谷川俊太郎や金子みすずといった詩人が広告にすりよってきたとしても、コピーは詩たりえない。なぜなら「自立したことば」という要件を満たすことはないからです。



大震災と原発事故は、はからずも「戦後」という時間で培ってきたはずのことばが、かくも脆く不確かなものだったということを露呈しました。
かわりに資本のことばが、その「虚」をついてなにかをあてがい、甘美な姿で取り込み、統べろうとしてきます。それに抗うかどうかは、個人の意思です。
しかしいずれ「個」としての強いことばを獲得し、発していくことが、この先、なによりも重要であることには変わりありません。むしろそうすることでしか道はひらけないと、自らに言い聞かせて、それを実践する意味で、こうしてながながと書き連ねてきました。まだまだ未生です。ここを基にして、これからもさらに考えていきたいと思い、いったんペンを置きます

  ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

辺見庸の文章に「だれも知らない花」というのがあります。そこには確定死刑囚大道寺将司に会いにいく様子が描かれています。
三月十一日以降の、もやもやとすさんでいた私にはこのふたりの詩人がなにより美しく映りました。そしてこのふたりのことばにずいぶんと力づけられました。

『小春日であった。わたしは男に会いたくなった。用向きはとくになかった。こころになにももたずに、ただ顔を見たくなったのだ。
そうやって気ままに男に会いにいってはならないといういわれもないはずだ。そう言いきかせ、あまりこわばるでもなく、男のいる方角にぶらぶらとむかった。高い塀にそった道をよろめきよろめき歩いた。むこうにはひょっとしたらタンポポかなにかが咲いてそうな気がしたが、灰色の塀にかくされて花も樹も見えない。途中、段差でけつまずいた。その拍子にことばがひとつ舌にのった。キリンナツバナ。なんだっけ。歩きながら発音してみた。キリンナツバナ。
するとキリンナツバナは胸に白くにじむ小さな花をぽっと咲かせるのだった。わたしはさもこれからキリンナツバナにでも会いにいくような気になって、うれしがることではないと抑えてもおさえてもうれしくなった。』

(了)