(1)小池

しかしライブから遠ざかって久しい。すでにライブをしていたことさえおぼろげで、はるか彼方のことのようだ。

日課となっている朝の散歩。いつもとかわらぬコースをそぞろ歩いていると、民家のかべにベタベタと貼られたポスターが、きょうにかぎって目に止まった。そしてあることに気がついた。

「小池」だ。

その民家のかべは、支持政党もイデオロギーもないようで、あらゆる政党、政治家のポスターがもはや重なるようにひしめいている。

共産党小池晃、ふんふん、小池ゆりこ東京都知事、ほうほう。

こんな狭いスペースに「小池」がふたりもいる。これは考えようによってはすごいことなのではないか。無駄な議員が多いといわれてはいるが、このふたりの「小池」はじつに華々しい。そんなことってほかにあるだろうか。ふたりの鴻池、ふたりの石破、ふたりの枝野‥。いや、ほかには見当たらない。

ひょっとすると「小池」という名前にはなにかに秀でたひとが多いのかもしれないと、そんなことを思いながら歩いていると、なるほど「小池栄子」がいる。そして漫画の人物とはいえ、こんにちの大ラーメンブームを予見した、ラーメンの小池さんがいる。はたまたこれは意見が分かれるかもしれないが、ポテトチップスはコイケヤのほうが美味しい。コイケヤは湖池屋だが、この際、小池サイドに無理やりはいってもらおう。あとは、だれかいたかな。うーん、そうだ!これまた忘れられない「小池」だ。指名手配のひとでありながら、呼びかけられた実に稀有な「小池」さん。

こうなってみると、時代はすでに「小池」だ。名前って、そのひとの人生のいろんなところで、影響がでるものだ。どう考えても「清水やすお」より「徳大寺有恒」のほうが、車の運転がうまそうなばかりでなく、なんだかひとそのものが「偉い」ような気になるから不思議だ。

とはいえ、あまりに大仰な名前で、名前負けなんてのもあったり、「有栖川」を名乗って詐欺で逮捕された例もあるから、やはりほどほどがいい。

「小池」はそのあたりのバランス感覚が優れているのだろう。個人的には「小池栄子」に一番会ってみたい。会ってどうなるということもないのだが、このなかでは身近に感じる「小池」である。


(2)閉まるのか

よく利用する電車にT営M田線がある。これはおそらく朝夕の混雑時だけと思うのだが、駅構内のアナウンスがすごい。なにがすごいかというと、電車が着いて、ドアが開いた瞬間に、

「ドアが閉まります。空いたドアよりご乗車ください。ドアが閉まります。」

と、まだだれも降りる前から「ドアが閉まります。」を連呼するのである。これには小心者のぼくなどは、すごく煽られる。次々に降りてくるひとたちの流れを、やや焦ってながめるだけでなく、最後のひとが降りたらすぐにでも乗りこめる体勢を作っていたりする。

「まもなくドアが閉まります。ご乗車になった際は中程までお詰めください。」

いや、まだだれも乗れてないからと、心のなかでつっこみをいれる。ちょっと汗ばむ。これはなるべく短時間での乗り降りを実現するための効率重視の心理戦なのだとわかる。わかっていながらも気がせいてしまう。

しかし、通勤のプロたるみなさんは慣れたものなのか、煽りたてるアナウンスなどまったく意に介していない。じつにマイペースなのである。しかもよどみがない。あたかも工場のオートメーションのごとくである。この通勤時のひとのながれというのは、ひょっとすると芸術的な美しさすら漂わせているのではなかろうか。

なので、駅員さんは、そんなひとびとの芸術的自主行動力を信じて、無理やり煽るのをやめてもいいのではないかと、かように思う。たたみかける「ドアが閉まります」にあせっているのは、どうみてもぼくくらいのものだからだ。

そういうわけで朝からドキドキしたりするのであるが、そういう点でいうと、かつてE電と呼ばれたY手線、あれ、Yの手線、いまどっちか忘れたので、 まあE電でいくけれど、国が経営していたあのクラスになると、乗客の乗り降りの際も、こうどっしりしているなとあらためて感じる。

なんといっても煽りがない。ドアがゆっくりあくと、さあ主役の登場とばかりに斜め45度をはるかに見据えたひとや、スマホの画面から目を離さないひとまで、じつに余裕がある。ゆっくりと降りても、なんか安心できるというか、これから乗ろうというなかにも気持ちの余裕が生まれるというものだ。

さあ、みな降りた。「第三の男」のメロディーを背に悠然と車内に踏み入れる。手すりを確保して、文庫本でも取り出そうかとトートバックのなかをモゾモゾする。やはり電車ってこうでないといかんな。みんな忙しすぎるんだよ。

武田泰淳の「ひかりごけ」を読み進める。ページをめくるが、電車はとまったまま一向にドアが閉まらない。あれと思ったころに、アナウンスが車内に流れた。

どうやらまただれかが、線路に立ち入ったらしい。 


 

(3)おろしうり


我が家からすこし行ったところにある「東京卸売りセンター」の略称は、「TOC」である。なにを隠そう、その「O」が「卸売り」の「O」であることに少なからざるショックを受けたのはこのぼくだ。

似たような略称に浦安の「TDL」があるが、その「D」はちゃんと「ディズニー」である。かように英語の略称とは、英語そのもの、あるいはたとえ日本語であっても英語に変換されたものだとばかり思っていた。

で、ぼくはそんな「TOC」が好きである。特に地下は宝箱をひっくり返したような、雑多な小売店がひしめいていて、おすすめだ。なかでもスポーツ系の店のバッタ感が半端なく、でかいダンボールにうず高く盛られたスポーツウエアを掘り起こせば、きっと気に入る逸品が見つかることと思う。

さらに居並ぶ飲食店は、数そして質ともに充実していて、「呑む・打つ・買う」の、「買うと食べる」を満喫できる。その満足度は浦安の「TDL」に匹敵するのではないかと、つねづね感じている。

そんななか、ぼくは一階にある「ABCマート」のファンである。ここのいいところは、「最後の一足」というコーナーがあるところ。サイズもデザインも選べない一点もの。ただし、ほぼすべてが定価の半額で買えるのだ。そこにある一足が気に入るかどうかという、靴と消費者との熾烈な戦いともいえる、その醍醐味がたまらない。

靴が欲しくなって、時間があるときは、必ずでかけていく。壁一面に、サイズ別にならべられた靴たちが、色とりどりで楽しい。自分のサイズのところにいって、あれやこれやと手にとってみる。そして気に入ったのがあれば、隅っこにいって履いてみる。

半額だからといって、すぐに買ったりはしない。かえって、靴選びは厳しくなるから不思議だ。いままで履いていたのはもう破けてしまって新しいスニーカーが必要なのだが、これだというものがでてくるまで、執拗にでかけていっては、なにも買わずに帰ってくる。この繰り返しが続いていた。

しかし昨日は、いいものに出会った。赤いナイキのスニーカーである。これまでスニーカーといったら、ほぼ白と決め込んでいたのだが、どうした気の持ちようだったのか、目に付いた赤いナイキを履いてみた。あれ、悪くない。赤といっても、むしろワインレッドに近く、どこか馴染みのある色である。

悩んでいて棚に戻したりした日には、ぼくと同じような狩人の目をしたあまたのお客さんたちに奪われかねない。決めた。そのままレジに赤いスニーカーを持っていく。

するとあのにこやかな店長がいた。ここの「ABCマート」が好きなところは、半額コーナーだけでなく、この店長さんの人柄によるところが大きい。なんともいえないいいオーラがでていて、買い物が気持ちいい。

いずれ新しい靴というのは、気分をぐっと高めてくれる。足元がいつになく誇らしげになって、出不精のぼくも、なんだか外へ行きたくなる。天気もいいしね。散歩にでもいこうかと思う。


(4)極寒の湯

銭湯が好きだ。普段から近所の銭湯によく行くが、仕事などで地方にでかけたときなどは、この風呂というのがたいへんな楽しみになる。たいがい泊まりは便のいいところにあるビジネスホテルと決まっている。当然部屋の風呂は極小である。洗い場もない。これでは仕事の疲れがとれるどころか、かえってストレスがたまるというものだ。

ホテルに着いてまず最初にやることといえば、近くに銭湯か日帰り温泉施設があるかを、フロントにきくことである。よっぽど遠くないかぎり、教えてもらった風呂に、毎日はいりにいくことになる。

この冬、釧路にいったときもいつもとおなじようにフロントでたずねた。

「この先、7分ほどいったところに『釧路温泉』がございます。」

道順をボールペンで書いた地図をもらってでかけることにする。しかし真冬の釧路は、一歩出るだけでもかなりの根性がいる。風呂道具を抱え、たいそうな厚着をして、ビル風と海風になかば吹雪のようになった釧路の街を凍えながら歩く。

滑らないように歩くせいか、7分よりもずっと時間がかかる。体幹が悪いので、雪でよく転ぶ。大人になって転ぶとものすごく痛い。毎年、一度くらいは東京でも雪がどかっと降ったりするが、そのたびに転んでは手痛いダメージを受ける。その痛さが身にしみているので、どうしても慎重になる。なにせ釧路は本場北海道。まるで氷の上を歩いているようなものだからだ。

しばらくいって、十字路を確かめながら見上げると、ビルの屋上に赤と白の電飾で「天然温泉」と書かれた大きな看板がみえた。フロントでもきいてきたが、どうやらあのビルのなかに温泉施設はあるらしい。

やっとのことで着いて、狭い入り口をはいっていくと、「釧路温泉」は12階にあるようだった。エレベーターを使ってあがっていく。いまどきのスーパー銭湯によくある、これでもかくらえ的な慇懃な感じではなく、昭和の健康センターのような雑然とした雰囲気であった。ぼくはこういうほうが好きなので、これでいい。それよりもここに来るまでに身体が完全に冷え切った。とにかく風呂にはいりたくて仕方がない。

湯銭を払って、さっと脱いで浴場へ。掛け湯をして、さてどうしようかと見回すと、「露天風呂」の矢印が目に飛び込んだ。やはり順序として露天だろうと、ここがすっかりどこか忘れてしまい、そそくさと矢印のほうへとすすむ。どうやら階段をあがっていくようだ。つまり13階に露天風呂があるらしい。寒くなってきたので急ぐと、扉があらわれた。勢いよく開けると、まさにそこは、ビルの屋上であった。

強い風が吹きすさび、横殴りの猛烈な吹雪に氷点下の裸をさらす。まさにそこは荒涼とした「屋上」そのもので、露天風呂としての飾りもさほどなく、どんと風呂があるばかりだ。この湯船までの数メートルの距離がつらい。しかし、銭湯バカゆえにここまで来たからには、入らないわけにはいかない。ぼくは走るようにして風呂に向かった。ザブンとはいってしまえばこっちものだ、これはこれでなんとも気持ちがいい。それは風呂の気持ち良さというより、生きた心地を味わう、そんな感じだ。もちろん、だれひとりとしてはいっていない。貸し切り状態というのも悪くない。気温はおそらくマイナス10度くらいだろう。それにくわえてこの強風である。体感温度ははかりしれないほど低い。顔だけが吹雪にあおられ、死ぬほど寒い。これが冬の温泉の醍醐味だといえば、そうなのかもしれないが、常軌を逸しているようでもある。いい湯加減ではあるが、顔がもはや限界だ。ここからでて、むこうのドアにいかなければならないが、この極寒に湯殿からあがるにも腰がひける。

出ようか、もう少し浸かっていようか。

ぼくは仰ぐように上を見上げた、するとすぐ頭上に、あの見覚えのある電飾看板「天然温泉」の文字が見えた。ああ、ぼくはいま「屋上」にいるのだと、極寒の地釧路のビルのてっぺんにいて、こうして風呂にはっているのだと、あらためて感慨を深くした。そのとき、ドアが開いて、年配のかたがひょっこりと顔を出した。ちらっと風呂とぼくのほうを見ると、すぐさまバタンと閉めた。

そろそろあがるころだ。ぼくは勇気をだして立ち上がった。



(5)やまおとこ


「山男」といえば、山をこよなく愛するひとたちのこと。いまだと「山ガール」なんてことばもできて、山や登山を愛好する層もぐっと増えたように思う。

いまでこそ、「山男」の意味もイメージもしっかりしているが、こどものころは、ちょっとちがっていた。

ぼくは、「山男」というのは、なんだか毛むくじゃらのおおきな、直立する猿人だと思っていた。キングコングがもっと人間化して、身長を2メートルくらいにした感じといえばいいだろうか。

実際、そのころ、UFOや超常現象、未確認生物などをあつかった本をよく読んでいたのだが、そこにも外国のどこかの山で「山男」や「雪男」と遭遇したという記事を見つけていた。

怖いながらも、できればいちどは見てみたい、そんな謎の怪物こそが「山男」だった。

オカルトに興味を持っていた同じころ、ぼくはボーイスカウトにもはいっていた。そのころのボーイスカウトの活動はかなりハードで、よく山にでかけていっては、キャンプやオリエンテーリングなどをしていた。

特にキャンプのときなどは、20キロ以上の荷物を背負わされて、山道をあがっていく。キャンプなどというなまやさしいものではなくて、たしか「野営」といっていたように記憶している。

隊列を組んで進む尾根づたい、その士気を挙げるためにも、よく唱歌を歌わされた。へとへとになりながら、何曲も何曲も、いやになるくらい歌わされた。ほんとは歌いたくないときでも、歌わないと怒られるので歌った。まことにいやな思い出である。

そのなかの一曲に「山男」というのがあって、こういう歌詞なのだ。

「娘さん、よく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ

 山で吹かれりゃよーえ 若後家さんだよ」

という感じで、当時、おそらくダークダックスかなんかが歌ってヒットしていたように思う。

で、これを自分より大きいリュックサックを担ぎながら歌う。なかば停止している思考回路の奥で、不思議に思うことがあった。

「なぜこの歌は、娘さんに『山男』を好きになってはならないなどと、注意しているのか?」

というものだ。あんな怪物を好きになる娘さんがいるというだろうか。

ぼくはうら若い清純な女性と、2メートルを超えた、茶色い毛で全身をおおっている半猿半人が、仲良く手をつないでいる姿を想像していた。娘さんはそれでいいのか。不本意ではないとするなら、娘さんというのは、そういう野性的なものが好きだということなのだろうか。

朦朧となるなか、ぼくは、おとなの人間の不思議さ、娘さんという途方もない物好きのことを思った。女性に対するほのかな憧れがあった年頃だけに、野蛮な「山男」に心惹かれていく娘さんの気持ちを、なんだか納得できない、いやなものとして感じていた。

「娘さん、よく聞〜けよ 山男にゃ惚〜れ〜るなよ」

こんなことをまことしやかに歌う男性コーラスの歌声が、まるで山の精のごとくこだまして、謎といわれた「山男」の存在をはっきりと証明していようだった。

しかし、ぼくたちが歌う「山男」はもっとやけくそだった。はやく目的地に着いて、このクソ重い荷物を降ろし、「なとりの焼き鳥」の缶詰を食べたかった。

娘さんなどは、もうどうにでもなってしまえというのが、スカウト全員の気持ちだったと思う。

そのせいか、いまでも山登りは好きではない。